絲山秋子・豊崎由美に答える

 オタどんに教えられて、書店へ行ったら、まだ先月3月号の『本の雑誌』があったので、絲山秋子+豊崎由美の対談を読んだら、おお私の名前が出てくる。
 絲山氏が、私がアマゾンのレビューで石川淳の『紫苑物語』に「誹謗中傷」めいたことを書いている、と口火を切っている。引用はないのだが、こういうものだ。

石川淳のどこが面白いのだろうか, 2009/1/28
 石川淳は、フランス語、漢文ができてすごいが、それだけで、小説は面白くない、と言われて久しい。この「紫苑物語」を私は高校時代に読んで、こういう小説なら書けるかもと思ったが、要するに高校生の空想程度のものでしかないということだ。それでも石川淳が消えずに残っているのは不思議だが、もしかすると高校生が読んでいるのだろうか。大人の読みものとはとうてい言えない。非リアリズムも結構、泉鏡花くらいになれば見事なものだが、石川淳というのは非リアリズムのダメなほうの例として残るといいかもしれない。

 しかし、明らかに作品のことを言っているのに「誹謗中傷」とは大げさな話で、冒頭の部分はかつて呉智英が言い、しかし本当にも面白い、と結論づけたもの(『別冊宝島 現代文学で遊ぶ本』1990)、金井美恵子は、石川が死んだあと、はじめに褒めてくれたのが石川淳だから今まで言わなかったけど、石川淳って面白くないのよね、と座談会で発言していた。それを踏まえてのことで、事実誤認はない。以下も批評として正当なもので、異論があるならあるでよろしい。しかし、文学作品に対する批判・批評を「誹謗中傷」と呼ぶ感覚は、最近しばしば見かけるが、プロの口から出ると、プロでもこういうおかしな意識を持っているのかと思って怖い。
 さて次に絲山自身の『海の仙人』のアマゾンレビューだが、これは引用されている。

川上弘美の亜流, 2007/11/12
「ファンタジー」などという得体の知れない存在が登場するあたり、川上弘美の亜流でしかない。芥川賞受賞作に比べると、そういうものを導入した時点で、作者の独自性は損なわれており、とうてい評価できない。

 絲山は、「沖で待つ」のほうがあとなのに、こういう風に書くのは作為を感じると言っているのだが、なに、単にこちらのほうを後で読んだまでで、作為など何もない。あとさきと言っても僅々二年で、特に変なところはない。
 ところで、ここで豊崎がおかしなことを言うのである。このレビューが参考になったかどうかで、14人中4人が参考になった、とあり、10人は参考にならなかったんですよと絲山が言うのを受けて豊崎は、そう、だから、4から10を引かなければいけない、なのにアマゾンは「参考になった」だけ加算している、と言うのだが、意味が分からない。そこに「14人中4人が」と書いてあれば、小学生だって引き算くらいできる。仮にアマゾンが「14人」を表示せず「4人が」とだけ書いていたら問題だろうが、いったい何が問題なのか、分からない。(その後ツイッター豊崎氏から、アマゾンベストレビュアーの選び方の話だと聞いてやっと分かった)
 そもそも「参考になった」かどうかというのは、その本を買う上で参考になったか、という意味で、読む前に押すものだが、実際には、その意見に賛同するかどうかを表明する場になっている。それはいいとして、何やら二人は、多数が褒めたらいい作品、とでも言っているかのようだ。そんなバカな。それなら『人間革命』がいちばん優れた文学作品だということになってしまう。
 どうもこの対談は、もどかしい。だって文藝雑誌の書評というのが、仲間による褒め書評しか載らなくなって、それこそ参考にならなくなっているわけで、活字媒体全体にそうなのに、そちらを問題にしないで、本当のところが分かることの多いアマゾンレビューを問題にしているのが、分からん。
 豊崎は私を「ご自分も作家なのに」と言っていて、まあ私などは「自称作家」なのでありがたいが、文藝雑誌で小説(の単行本)を書評されたこともない弱小作家である。それはそうと、自分も作家だと、他人の作品を褒めなければいけないかのような物言いは奇妙で、それこそ吉岡栄一の『文芸時評』が言う通り、石川淳以来、褒め書評しか載らなくなったとか、そういう状況への甘えも見てとれないでもない。実際には、作家が批評をすることだってあるわけだ。もっともこの「作家」というのは、物書きという意味かもしれない。私はアマゾンレビューの被害は被っているが、それは、事実誤認か、通俗小説と純文学の区別もつかない連中の、匿名書評、ないし、悪意をもって読まずに書くような奴らのことである。
 それと、豊崎が、自分のしているのは弱いものいじめか、と自問しているが、これは簡単なことだと思う。『紫苑物語』は「古典」であり、講談社文芸文庫に入っている。『海の仙人』は藝術選奨新人賞受賞作である。そういった作品は、むしろより厳しく見られるべきものである。たとえば、無名の新人の作品など、必要もないのにわざわざ引きずり出して読んで貶す、といったことをしたら弱い者いじめっぽいが(まあ「新人小説月評」は仕方ないとして)、私はそういうことをしているわけではない。(まあ、自費出版とかで、変すぎておかしい、といった時にはアマゾンレビューを書いたりするけれど)
 アマゾンレビューで問題なのは、ほとんどが匿名だということだろう。海外のアマゾンではけっこう実名が多い。さらに「参考になった」などを押しているのはさらなる匿名の連中で、私のレビューを見ると、明らかに内容に関係なく三人が「ならなかった」を押しているから、むしろ10人の中から3人引くべきだろう。
 それに、今ではかつてのように、この作家や作品がいいかどうか、といった論争が文藝雑誌を舞台に行われなくなってしまった。問題なのは、むしろそのことの方ではないのか。
 だいたい、私のレビューなどというのは、売れ行きにさしたる影響を与えない。現に豊崎由美があれほど渡辺淳一を、それこそ「誹謗中傷」していても、ちゃんと売れているのだ。書評というのは、受け取る側の不快を引き起こすし、匿名批判は許されないものだが、売れ行きに影響しないのである。
 それと、豊崎由美のような批評家が、こうして作家とあまり親しくすると、その作家について「正直」にはなれないのではないか、という懸念がある。
 なお「誹謗中傷」というのは、こういうのを言うのだ。姫野カオルコ『ツ、イ、ラ、ク』。

ナラタージュ」の青臭さに耐えられなかった人へ, 2009/5/7
By chino108 - レビューをすべて見る
島本理生が若くてブスだというのは本人の罪ではありませんが、
そんな自分に鈍感である、つまり「ナラタージュ」みたいな
小説を書いて平気でいられる、というのは物書きとしては
恥ずべき罪だと思います。
(現に綿矢りさは自分の若さと美貌を憎む能力を持ってます
から)
島本理生ほど「繊細な感性」から程遠い作家はいないでしょう。

若者が感じる年寄りの加齢臭も、大人が感じるガキの青臭さも
ともに人間が発する腐臭という点では同じです。
「そんな自分ってどうよ」、そういうつっこみを常に絶やさず、
自他を問わず人間の醜さを直視しながら、人が生きて在ることを
いとおしむ。姫野カオルコ、作家としても人間としても
凄すぎる人です。

 こういうレビューを放置しておくことが、アマゾンレビューの最大の問題であろう。
小谷野敦
(訂正あり:絲山発言としたものは豊崎発言だったので訂正しました)