なんと!

 駅前の餃子屋が、いつもうるさい。店の前にカセットレコーダーを置いて、宣伝の文句を大音量で流しているから、私はしばしばボリュームを最小に下げたりしている。中島ギドーのように持ち去ったりはしない(それは犯罪だろう)。
 その文句の中に「なんと」が多い。「餃子なんたらがなんと400円!」などとしつこい。私はこの「なんと」という副詞が嫌いである。だから恐らく私の文章に「なんと」は出てこないと思う(*)。文学的繊細さを持つ人なら、この言葉は使わないだろう。だって、「なんと××」という表現には、俺は驚いたぞ、お前も驚け、という意味合いがあるからであって、押し付けがましいからである。
 私が「なんと」が嫌だなあと思ったはじめは、実ははっきり記憶している。1989年暮れ、福武ブックスから上垣外憲一の『空虚なる出兵』が出た時、はさみこみの栞に上垣外氏の紹介文が書いてあって、日朝関係について書いている上垣外氏だが、大学での専門は「なんとドイツ文学である」とあったのだ。別にい〜、驚かないよ、という気がするのは、河竹登志夫先生なんか、東大理学部の出身である。

*うん、きっとブログ検索して「あるぞ」とか言う奴がいると思っていたよ。
著書から探してきたらけっこう感心したんだけどね。

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大塚さんが、いきなり電話して恥ずかしいなどと書いているが、恥ずかしがることはない。誠実に返事しないやつには電話するしかないではないか。
 知っていて書いたのではないと思う。私は『新潮』にはエッセイもアンケートも書評も書かせてもらえないのである、田中貴子よ。「淀君」論批判は『リアリズムの擁護』に付記したから、もうきっちり活字になっている。

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最近、不自由度が増しているのは、私の蔵書のうち八割方は実家にあるからで、大阪にいた頃から、それを見る必要が生じた時は、母に電話して見てもらったり送ってもらったりしていたのだが、今となってはそれもできない。杉並図書館にあれば割合すぐ見られるが、困ったものである。しかしその実家もそろそろ限界に近づいている。学者はある年齢を過ぎると、本を買う金ではなく、それを置く場所を確保する金に困り出すのだ。

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『ぐるりのこと。』という映画を観たら、通俗森田療法流の新興宗教映画だったので、アマゾンで批判したら、信者たちが集まってきて「参考にならなかった」を押しまくったり変なコメントをつけたりしている。あれは本来、まだその本などを読んでいない人が「参考になったかどうか」を投票するものなのだが、事実上、褒めているレビューに賛同したり、批判するレビューに反対したりする場になっている。しかし私は映画評というものをほとんど観ないが、一般人はともかく、ああいうのを映画評論家が褒めているとすると、薄ら寒いものがある。茂木健一郎が受けるわけだ。
 今日は、帝京女子短大で英語の非常勤を始めてから15年続いた、私の大学での英語教師人生最後の日になるわけだ。実はその最初の非常勤で、短大の英語なのに『ナボコフ短編集』を読ませるという無茶をやった。教師でさえ頭を抱えるくらい難解な英語なのに。