東北大学名誉教授の佐々木昭夫先生が一月に亡くなっていたことを知らなかった。今さる人から教えられて驚いた。
 佐々木先生は東大比較の遥か先輩にあたり、もう十年ほど前から、著書を送ったり送られたり手紙のやりとりをしていて、年賀状も戴いていたので、まさか急逝されていたとは。
 『東大駒場学派物語』も送ってしまっていたので、ご遺族にお詫びとお悔やみの葉書を書こう。

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淀君」が、遊君や辻君になぞらえられた呼称だというのは田中貴子が最初に言い出したのだと思っていたら、小和田哲男が『戦国三姉妹物語』(1997)で書いていた。田中の『あやかし考』に入っている「淀君拾遺」の初出は、「『桃山歴史・地理』第三十三号、一九九八年/『大航海』第一二号、一九九七年」になっていて、私はあとの97年のものが小和田より前か後か気にしていたらこれは間違いで、98年の20号である。
 しかし福田千鶴の『淀殿』には、幕末の「徳川幕府系譜」でも、将軍御台所などが「於江与君」「朝日君」などと書いてあるから、「君」を蔑称「であると断定することにも一定の留保が必要だろう」と書いてある。この言い方は学者特有の婉曲語法で、要するに「成り立たない」のである。しかも田中はこの『淀殿』を読みもしないで、題名だけ見て、大塚ひかりさんが「淀君」と書いた著書にアマゾンレビューをつけて、今では淀君とは言いません、福田千鶴著をご覧なさい、などと書いたのである。既に削除されているが、未だに自分の誤りを認めたことはない。
 田中は小和田著を知らなかったらしいが、それにしては、書いていることが似すぎている。いや疑っているわけではなくて、どこかから伝わったのではないか。