生きることの意味

http://d.hatena.ne.jp/jmiyaza/20090215/1234635379
 なるほど。久しぶりにネット上で、説得的な文章を見た。
 私はもう十年ほど、学者は学問をしていればいい、と思ってきた。「生きることの意味を問う」たりするのは「学問」ではないと思ってきた。それは、私自身が、自分で生きることの意味を考えていたからである。しかし東大のような場に、碌に生きることの意味など考えていない教員が多数いることは間違いない。平均寿命を百歳にまで押し上げればよいのだと能天気に考えるような禁煙ファシストがのさばるのも、そのためである。しかし、そういう「問い」を抱え込んだ人間というのは、育てられるものではなく、先天的なもの、最初からそのような人間であるものだ。大学での教育によって、「生きることの意味」を考えるような人間を育てることはできない。
 だが、西部先生がその当時不快に思っていたのは、社会科学研究室の助教授連の中に、碌に論文すら書かない者がいたことが第一である。そういう意味では、依然として業績のない教授が結構いるから、まだ東大は、そこまで深く考える状態にはない、とも言える。

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藤本君から住所を報せてきた。最後は公示送達まで考えていたから、ありがたい。もっとも自分から教えてくれたからといって「彼の住所は、愛です」とは言わないけれど。訴状提出は三月に入ってからだろうから、期日は四月だろう。
 哲学科で学んだ藤本君が、どのような死生観を持っているのかは分からない。けれど、裁判で勝っても負けても、私たち、禁煙ファシズムと戦う者たちは、既に社会的に十分敗北しているし、今後も敗北し続けるだろう。負けても戦う人生というものがあることを、藤本君の哲学は理解できているだろうか。

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先日、『ネヴァダ・スミス』という映画を観た。復讐の話で、最後は、復讐の虚しさというおなじみの結末になるのだが、こういうものを観ると、いやそれなら俺にも復讐させてくれ、そして虚しさというのを味わわせてくれ、と言いたくなる。

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今年の大河ドラマははずれである。ひどい。「人の痛みが分かる人間」なんて、そんなこと戦国時代の人間が言うわけないだろう。