丸谷才一の取り違えなど

 内澤旬子さんが『週刊現代』で『美人作家は二度死ぬ』をとりあげてくださった。ありがたい。「悲望」も褒めてくださったと理解しますが、その辺詳しく伺いたい気もします。
 なお訂正があります。210p「選んでほしいのし」はもちろん「ほしいのだし」の誤植ですが、31p「合コンで知り合ったT大の学生と」は、「ふとしたことで知り合った東大の院生」の間違いで、短編を長編に仕立て直す時に直し忘れました。お恥ずかしい。

 なお『里見とん伝』で、掲載誌不明だった1941年の「五分の魂」は、神保町のオタどんのおかげで、『サンデー毎日』十月の秋季特別号掲載と判明いたしました。オタどん、あなたはだあれ?

http://d.hatena.ne.jp/jmiyaza/20090208/1234066988
 「わからない」がむやみと多いのだが、面白くないとか分からないとかいうのは、この場合はしょうがないだろう。個人の資質の問題だからである。
 ところで丸谷才一の、日本では花柳界が西洋のサロンの代わりだったというのは、だいぶ欠点のある説である。西洋のサロンというのは、小説のネタになるゴシップを聞く場でもあり、恋愛の対象になったりする女性に会ったりする場である。だが決定的な違いは、サロンでは貴婦人に会えるが、花柳界では貴婦人、ないし素人女性には会えないということだ。だから、花柳界はサロンと同じ機能を持っていたとはとても言えないし、荷風の「つゆのあとさき」「ぼく東綺譚」などは、要するに私小説である。
 ただし、私が「いろをとこ」をさほど名編と思わないのは、江戸幻想だからではなくて、「いろをとこ」が名作だというのは、もっぱら丸谷が一人で言っていることなのである。丸谷は、自分が水商売の女と遊ぶのが好きなのと、この主人公が、最後に山本五十六だと明かされる、そういう構造の小説が好きなだけで、なかんずく丸谷は、里見の小説を大して読んでいないと思う。
 なお私も「檸檬」は散文詩だと思うし、「城の崎にて」は随筆だと思う。『リアリズムの擁護』ではやや舌足らずだったが、私は「現実暴露的、告白的私小説」を私小説の白眉だと考えているのである。そして「読者」といっても、それはもちろん読者はさまざまで、私小説というのは、多くの読者を獲得できるものではない。まさに「一匹と九十九匹と」である。
 私は、詩というものに、ほとんど関心がない。ゲーテが『詩と真実』を書いたごとく、詩というのは現実を美化するもの、小説というのは現実の醜い面を赤裸々に描くものというとらえ方もあって、私はそういう意味での小説が、今では好きなのである。フォースターが「ひどい貧乏人」と言っているのは、『ハワーズ・エンド』に出てくる下層の男以下の、眼に一丁字もない者、という意味である。眼に一丁字もない者に詩が書けるわけはないから、以下の議論は最初からおかしいのである。また「個人が西洋から輸入された」というのは間違いである。私は「恋愛輸入品説」をずっと批判してきているが、内面やら個人やらというものが日本になかったというのは間違いで、別に『蜻蛉日記』のようなものはあるし、むしろ徳川時代の知識階層が、儒教道徳に縛られていたために、内面を描くという作法を持たなかったからで、決して「輸入」されたわけではない。
 私が「悲望」を書くに至った経緯は『中央公論』12月号に書いてありますが、なぜ「作家になりたい」と思ったのかは、どこかに書いたはずですが、子供の頃から「物語」を書くのが好きで、小学生から中学生の頃はマンガを描いていて、けれどイラストレイターの叔父から絵が下手だと言われたのと、その頃大江健三郎に夢中になっていたので、なりたいと思ったのです。また私が「馬鹿正直」なのは、本当は生来のものかもしれず、宮崎氏がなぜ分からないのかは私にも分からず、恐らく宮崎氏が自伝を書いてくだされば分かるのかもしれない。
(付記:三浦淳先生が、「詩=dichtung」というのは詩だけでなく文藝作品を広く指すものだと書いておられて、それはその通りなので、ここはちょっと議論をはしょった。同じ小説といっても、スコットの小説などは美化されたもので、オースティンのそれは写実的であり、19世紀半ばから、現実を暴く小説類が隆盛を見るわけで、たとえばボドレールなら、貧民を描いてもそれを倒錯的な美にしてしまうのに対して、ゾラやモーパッサンは仮借なく描く、というような構図の下で言っている。)

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http://www.asahi.com/national/update/0216/TKY200902160432.html
今ごろになって何を言うか水村美苗、である。アマゾンレビューにその種の問題があることは、私が二年も前に書いているし、多くの人が言っていることだ。
http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20060201
 まあ水村は著書も少ないし、知らなかったのだろうが、「水村が言うととりあげる」朝日新聞の姿勢のほうに、私は疑問を感じるね。

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中川一郎が北海道のホテルで急死したのは1983年1月9日、私は大学一年生だった。前年11月の、中曽根が勝利した総裁選に出馬して最下位の四位だったが、三位は安倍晋太郎で、たいていの人は中川の最下位を予想していた。当時中川は福田派に属しつつ中川系というのを率いていた。今は「派」より小さいと「グループ」というが、当時は確か「系」だった。福田派中川系といったところか。
 朝私が寝ていると父が起こしに来て、「中川さんが死んだよ」と言ったのを覚えている。最初は心筋梗塞とされ、確か毎日新聞の社会面では「肥満の人のたばこ、危険」などとでかでかと書いていた。が、二日後、自殺と報じられた。当時からたばこ攻撃はあったのだ。いい加減な毎日。
 福田派からそうとう圧力が掛かったとか、果ては他殺説まで出て、今もってその真相は謎だが、中川昭一の醜態を見ると、何か精神的に弱い遺伝でもあるのではないかと、自殺説がやや強まった気がする。もし中川昭一が自殺したりしたら、いよいよ…。

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私が塾を開くと公開した一月末から少したって、ミクシィ内の私が作ったコミュニティ「比較文学」でもトピックを立てて告知した。すると一日ほどたって、ついていたのが「ワイネフ」の「おめでとうございます」とかいうコメントだ。不快だから削除して、コミュから追放してブロックしたつもりが、番号を間違えていたらしく、また「あれ? 消えちゃったな」とかいうコメントがついた。それで慌ててまた削除して、今度はきっちりブロックした。自分がしたことは何でも書く藤本だから「またアクセス禁止されました〜」などとブログで書いているものと思っていたら、どうもないらしい。自分のしたことは何でも正々堂々と書くというわけではないんだね。
 それから藤本君、どうせ裁判でそんなこと争点にならないだろうから言うが、君「東京大気汚染訴訟」って知ってる? 喘息患者を苦しめているのは車の排気ガスだろうが。喘息の小学生が、嫌煙家の大人たちに煽動されて書いたものを持ち出して、なおかつ車の問題は後回しかね。さすがに、元自動車会社勤務の渡辺文学と親しいだけのことはあるね、としか言いようがない。君、そんな簡単に予想できる返事はバカバカしいから私がしないのをいいことに、よく言うね。
 そうだ藤本君、どうせ裁判で書証として出すのだから、私からのメールは全部公開して構わないよ。不思議にも君は、これまでのやりとりを公開してもいいか、と訊いててきたことはないね。私がちゃんと答えているのがばれちゃうからかな? あれ? そういえば、時津風部屋の件、君はメールで、ほかにもたくさん書いた、と言っているけれど、それは君のメールなんだから、公開すればいいのに。それも、君がむちゃくちゃ言っているのがばれちゃうから公開しないのかな?