光田和伸を追撃

 先日、光田和伸の『恋の隠し方』を批判したが、作家の秦恒平先生から、あれは自分が『慈子(あつこ)』という小説で書いたことと近い、と報せてきた。私は『慈子』は読んでいたのだが失念していた。秦先生は全作品をネット上で公開しているので、これである。

http://umi-no-hon.officeblue.jp/home.htm

 さらに秦先生の「兼好の思い妻」というエッセイもあって、これはネット上にないようなので、秦先生が送ってくださった現物を掲げておく。別に光田が剽窃したというような話ではなく、単に先行研究をちゃんと調べなかったのだろう。それにしても、光田はこの内容をインターネット放送で七年ほど前に流したという。いったい七年もたって、相変わらず内容スカスカというのは、その間何をしていたのだろうか。

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旺文社「日本歴史展望」第五巻『南北朝 分裂と動乱の世紀』瀬野精一郎責任編輯 所収
一九八一年七月十五日 刊行
創知社 秦 恒平著『春は、あけぼの』所収 一九八四年一月十五日 刊行

    兼好の思い妻 秦 恒平

 久しぶりに『兼好法師自撰家集』を読みかえしていて、前半、それもわりに早い部分に、前後を「恋」の歌に埋められ、なにげなくこんな歌の織り込んであったのに気がついた。

  つらからば思ひ絶えなでさをしかのえざる妻をも強ひて恋ふらむ

 たんに「かのえさる」と題してあるのは、「庚申」の歳に詠んだ述懐歌なのだろう、歌のなかに、きちんと題が詠みこんである。「小男鹿の得ざる妻」に重ねて、どうやら「かの、得ざる妻」という痛嘆があらわれている。
 つらくなると、あきらめきれずに、それ、山の小男鹿がまだ逢えぬ女鹿を、あんなに恋いこがれて啼いているよ──というのが表むきの意味だろう。
 だがほんとうは、そんな小男鹿と同じように、あの、とうとう得られなかった思い妻、心の妻のことを、今も恋しく思い出しては泣けてしまうよ──と作者は詠んでいるらしい。
 兼好法師が、名高い『徒然草』を著した人であることはまちがいない。彼が俗名を卜部兼好といったこともまちがいない。官位は従五位上左兵衛佐にまで至ったらしいから、けっして身分の低い存在ではなかった。吉田神道の家に生まれ、異腹と思われるが兄弟に比叡山の大僧正になった者もいる。五位をかりに山の五合目と下から眺めれば、まずは文字どおり雲上人にちがいない。兵隊の位でいえば堂々たる聯隊長格、麓はおろか地下の衆庶からは仰ぎ見るほどの、末流ながら貴族の一人であった。
 兼好は生涯に二度関東へ旅しているが、そうして地方へ出て来られると、彼ていどでも地元ではもてなすのに重荷だったふしが見える。
 だが、都では、ことに宮廷をめぐる貴族社会のなかでは、五位やまして六位蔵人ていどの兼好は結局は「高貴」に仕える「従者」の地位を脱け出せないさだめを負うていた。卜部兼好は年少の頃から大臣堀川(源氏)の諸大夫であった。内大臣まですすんだ堀川具守の家司であった。わかりよくいえば家来、側近の一人として官途にも推挙された末輩の一公家にすぎなかった。
 それがいつか出家をして『徒然草』を書いた。のちに和歌四天王の一人に挙げられる歌詠みとして知られ、晩年に兼好法師家集を自撰した。ただし、とくに他に業績らしいものもない。著述も伝わらない。バサラ大名高師直の人妻への横恋慕を手伝って、艶書を代筆したといった醜聞も脚色されているが、真っ赤なウソで、取るに足りない。
 『徒然草』があっての兼好──というに結局尽きている。それでまた十分、十二分なほど『徒然草』の価値は高い。
 『古事記』『万葉集』『源氏物語』『平家物語』の四冊で、ある時代までの「日本」はほぼ代弁できるだろう。『今昔物語集』や『梁塵秘抄』を加えてもいい。中世に入ると思想的に内容が拡大するので簡単にはいかないが、その中でも『徒然草』を落とすことはけっしてできぬとだけは言いたい。『徒然草』にまったく学ぶことなしに「日本」は語れない。兼好法師は、そういう古典中の古典を書いた。その余の兼好は、あまり問題にしがいがない。問題にするほどの行動もない。伝説もない。
 ただ『徒然草』との関わりで、どうしても見すごしにできない点が二つある。一つは卜部兼好がいつ兼好法師と変わったか、何故か。もう一つは『徒然草』はいつ書き始められたか、何故か。これは兼好の理解のためというより、わが古典中の古典である『徒然草』の理解のために、どうしても答を見出したい不動の課題になっている。
 ところが、二つの問題点を一つにつないで力強く説き明かした決定的な答がまだ出てこない。私はまだ作家以前の昭和四十年初夏に、出版社の平社員づとめのかたわら、生まれてはじめて、専門外の「『徒然草』の執筆動機について」という、右も左もわからないあまり自信のない論文(の習作)を書いて、卒業後七年の大学の小雑誌に載せた。それをもとに、初の長篇小説『慈子(あつこ)』(原題は「斎王譜」)を書きおろした。ところが以来、右の二点についてどうやら私の考察にもそれなりのレーゾン・デートルがあるらしいこと、幸か不幸か、私の『徒然草』の読みに魅力さえ感じてくださる専門家があることを、すこしずつ眼に耳にするようになった。
 そこで此の際、改めて小説とは別の角度から右の課題に謎解きの途を手さぐりしてみよう、兼好の人物に近づいてみようと思った最初(はな)に「かのえざる」の歌に再会し、これは格好の話題と思わず手を拍ったわけである。
 十干十二支の暦は、六十年で一巡する。兼好は諸説あるものの、少なくとも七十年以上生きているが、その生涯に庚申の歳は一度しか経ていない。元応二年(一三二〇)兼好三十八歳の年に当っている。
 三十八歳の兼好について確実にわかっているのは、すでに出家の身ということである。兼好がいつ出家したかについても諸説あるが、たしかなところ、三十一歳にはすでに出家していた。面白いことに、先の歌の「得ざる妻」ならぬ「得た妻」つまり本妻らしい人影が、その、三十一歳以前の卜部兼好出家を裏づけている。
 その人、尼宗妙について、兼好自身はなにも語っていない。偶然みつけられた、だが信用のできる土地売買の証券の中に、すでに出家している兼好法師に代って、かつて兼好自身が買った土地を或る寺に寄進した尼として名を見せているばかりである。この宗妙尼がからんだ山城国山科小野庄の水田一町歩を、そもそも兼好が買い入れたのが、彼の三十一歳の時で、その田券に、すでに、はっきり「兼好御房」とある。
 宗妙尼が兼好の「得た妻」であった確証はなにもない。が、兼好にいわば戸籍上の本妻があったなら、それはさぞ悪妻であったろうという厳しい推測はなされている。『徒然草』に見える彼の結婚観があまりに辛辣で、否定的だからだろう。
 だからといって、兼好が女色を毛嫌いしていたわけではない。万事にどれほど有能であろうと「色好まざらむ男」などまるで味けもなく、「玉の巵」に底がないようなものだ。男なら恋に悩み「露霜にしほたれて、所さだめずまどひ歩」き、親のいさめや世間の非難を恐れて心の安まる暇なくあれやこれや思い乱れながら、そのじつ、とても独寝にまどろんでばかり居れるひまな夜などないというのがいい。とはいうものの「ひたすら」恋に溺れてしまうふうでなく、女にも軽くは見られない男でありたいもの──と、早くも『徒然草』第三段で、兼好は、端倪すべからざる大通ぶりを披露している。そしてこれにつづいて第四十四段くらいまで、ことに魅力的な或る女人を描写した各段が断続的にあらわれてくる。そこに見える特徴は、第一に小説風の筆致の多用であり、第二は、女を訪れる貴人の「従者」としての視点であろう。たとえば第三十二段で、愛を語らつて今帰っていく男を見送って出たまま、人知れず月を眺めている女の、すぐさまま家の内へひっこんでしまわない振舞に奥ゆかしい優しみを感じとっている兼好は、まぎれもなくその「男」の供をして女の家の庭先かどこかで主人の退出を待っていたような、まだ在俗の頃の「従者」 の立場をすこし切なく演じている。
 十六歳で堀川家の家司となった卜部兼好は、当主、具守に十分目をかけられていたようだ。むろんそれだけ秀才であり有能な従者で兼好はあったらしい。
 しかも兼好の出家には、そして『徒然草』執筆の動機には、そうした従者身分からという以上に、従者気質、なにを見てもつい働いてしまう「従者の眼」からの脱出と飛翔への痛切な念願が横たわっていたという読みを私はしながら、『徒然草』開巻から第四十三、四段までを一連のものと理解した。各段の来意性(内容の連絡)からみて、少なくもその辺までが第一次の『徒然草』としてほぼ一気に書かれ、そのあと、有名な「あやしうこそものぐるほしけれ」という首文がおそらく書き加えられたろうと。かりに「つれづれなるままに、日ぐらしすずりにむかひて、心にうっりゆくよしなし事を、そこはかとなく書き」つづけるなら、およそ一日二日でも書けるていどの分量が、そこには有る。あたかも、或る動機に催された微妙に一連一体の執筆内容がそこには有るからだ。(それ以後は、いわゆる随筆として随時長期にわたって、書き留め、書き継がれて行ったと考えていい。)
 ではそうまで脱出して行かずに居れなかった「従者の眼」とは、兼好にとって如何なものであったのか。
 主君具守の風貌は、第百七段の「堀川内大臣殿」に見えている。宮廷の女どもが出しぬけに「郭公(ほととぎす)をお聞きになりまして」と訊ねては、咄嗟の返事しだいで男たちの品定めをしていたのを、「岩倉で聞きましたかね」とさらりとかわした逸話だが、岩倉には彼の山荘があり、あまりに「難」のない返辞に女どももかえってひるんだらしい。
 のちに、この岩倉の山荘に、具守は死んで葬られており、葬送に厚く関わったのが兼好法師であった。
 彼は次の春、亡君の墓所にひとり参り、『源氏物語』の人物に倣い、近くで摘んだ「さわらび」に添えて、わざわざ、延政門院一条という女房のもとへ故人追慕のしんみりと佳い歌を送っている。女の心をこめて答えた歌も兼好家集に記録されている。文保元年(一三一七)、兼好法師三十五歳のことだが、大事なのは、延政門院一条が、故堀川具守の思い出を今は法師である兼好と共有している事実、そして兼好家集中にいわゆる女房名にせよ実名を書き込まれたただ一人の女友達である事実である。
 この一条は、もう一首、後ろ立てを失い「あやしきところ」にひきこもった由を伝えて、「ご想像ください、こんな佗びずまいの中で、昔しのぶ涙に袖をぬらしていますのを」と歌ってよこしたことが兼好家集に記されている。むろん兼好からも共感の返歌があった。いったい、どんな「しのぶ昔」がこの二人の涙を誘うのか。
 延政門院に仕えた一条という名の女房のことは、なにも他にわかっていない。『徒然草』第三十一段は、ある雪の朝、雪にふれずに、ただ、用向きの文を兼好から送って無風流をなじられた話であるが、この風雅な相手を、白石大二氏は一条と想像し、山口剛氏はこの段を『徒然草』の「眼目」とまで大切に見ている。この段は、私が先に重視した第三十二段にちょうど先行していて、しかも両段いずれも「今は亡き人」として兼好の熱い追慕の情が寄せられている。
 第一の贈答歌がある限り、堀川具守と一条、一条と兼好が、何かの因縁で結ばれていたことは認めるしかなく、第二の贈答歌にたとえば第三十二段や、また第百四段をうち重ねて読めば、主君具守と従者兼好とを情緒的に結んでいた一条の存在が強い手ごたえをみせてくる。中新敬氏はここに主君の容れるところとならなかった、本意を遂げなかった恋愛を想像しているが、微妙な三角関係を推測してもよい。
 一条が仕えた延政門院とは後嵯峨院第二皇女悦子内親王のことで、兼好や一条よりずっと高齢の貴女であり、少なくも兼好から直かに関係のもてる間柄ではない。堀川具守ともとくに近い関係とは見えない。だが兼好は『徒然草』第六十二段に延政門院の幼時の利発さを話題にして、こんな謎かけ歌を挙げている。

  ふたつ文字牛の角文字直ぐな文字ゆがみ文字とぞ君はおばゆる

 内親王は父君後嵯峨院の御所へ参る者に言づてて、「こひしく(四字に、傍点)思ひまゐらせ」る気持を告げていたのだ、傍点の四文字の形を見れば、謎は面白くとける。
 これはいかにも延政門院側近から洩れ聞いたという話題であり、ここにも女房一条の姿が透かし見えるが、『徒然草』本文から読みとれるさらに重要な内証がある。
 一つはその第二十四段で、もう一つは第二百三十八段「自讃」の第七箇条である。
 いったい『徒然草』の書き出しは、序に次いで、まず門地や品性の高下を語り、政の大義にふれ、一転して恋の話題から菩提心と愛染無明の綯いまざった人の日常を論じ、やがて自然観照の深まりに応じて敬神尚古の念が強く吐露されて来る。その感動の極まった体で、第二十四段冒頭の第一行がさながら迸り出る歌声のようにこう書かれる。

 斎王の野宮におはしますありさまこそ、やさしく面白き事のかぎりとは覚えしか。

 天皇の御代が改まるつど内親王方の一人が伊勢の斎宮として下られる。その伊勢下向に先立って暫時を嵯峨の野宮に住んで潔斎されるのが習いであった。私は幼来、『徒然草』を読んでこの一節に至るつど、なぜか兼好が清浄の貴女に寄せていたらしい清列な慕情に、つよく感じ入り、胸を鳴らしたものだ。
 しかも、この段のあと第二十五から第三十八、九ないし第四十一段まで、鳴り響くように、兼好の心を占めた無常迅速の感慨と或る個性的な統一感をもった「今は亡き人」への追慕と親愛の文章が、打ちつづくのである。強いていうと、私には、第二十四段はこの一連の挽歌に対し、格調の高い序をなしていると読めて仕方がなかった。
 第二十四段の「斎王」は、一般の名辞でありえず、兼好の体験にしみじみ裏打ちされた語調に包まれている。まちがいなくこれは徳治二年(一三〇七)九月に野官に入られた後宇多院第一皇女の奨子内親王をさしており、しかもこの方は後二条天皇崩御により、ついに伊勢へ赴くことなく退下して、延政門院座所に身を寄せられた。
 言うまでもないが、兼好のかの「得ざる妻」とこの貴女とは重ならない。第二十五段以下の「今は亡き人」こそそう言えそうな女人だが、それはむろん奨子内親王とは別人である。しかし全く無縁でもなかったからこそ「故人」追慕の各段に先立って、第二十四段に「斎王」のことを「やさしく面白きことのかぎり」と口を極めて嘆賞し、「覚えしか」と回想せざるをえなかったのではないか。延政門院座所に身を寄せた事実とも重なり、兼好は女房一条を透かして主の具守の思い出だけではなく、見果てぬ夢の「斎王」の姿をも眺めていたらしい。
 そこで『徒然草』全二百四十三段中の第二百三十八段に目を転じてみると、七箇条にわたって兼好の表むきのごく些細な「自讃」が記されているその第七箇条──ふつう、女色を以て動揺させようとする策謀に抵抗した兼好の道心堅固の白讃と解釈されている文章に出会うのだが、私は一度としてこんな通説に与することはできなかった。

 一、涅槃会の日である二月十五日、月の明るい夜がすっかりふけてから千本釈迦堂に参詣して、御堂の後ろからはいって、ひとりで顔を深くかくして説法を聴聞していた。すると、上品な風情で、姿も匂いもほかとはちがう女が、わり込んで来て膝にもたれかかり、匂いも移らんばかりにすり寄って来るので、ぐあいが悪いと思ってすわったままその場から身をひくと、さらに寄ってきて、また同じように寄ってくるので、ついに席を立ってしまった。
 その後、ある御所に仕えている古参の女房が、とりとめのない話をされたついでに、「ひどく無粋な人でいらっしゃると、お見下げいたしたことがありました。情がないとお恨みしている人がございますよ」と言い出されたことがあったが、「いっこうに、なんのことかわかりかねます」といって、そのまま話はやんでしまった。
 これは、あとで聞いたところによると、あの聴聞の夜、貴人の席の内のある人が私を見つけられ、お付きの女房を入念に粧わせてつかわされ、「うまくいくようなら、言葉などかけてみるがよい。そのありさまを報告しなさい。面白いことだろう」といって、画策されたのであったという。(山崎正和訳)

 場所柄、度の過ぎた悪戯というしかないが、三段に分かれた後日の楽屋話もふくめ、これは兼好が若き随身時代の回想にちがいないとして「道心堅固」の自讃とは笑止の限り、私はこの得々とした筆致の芯の部分に、「貴人」とのかような関わりそのものを自讃している兼好の、根の深い従者心理を読みとらずにおれなかった。彼は寄ってきた女が即ち「ある御所ざまのふるき女房」とも、したがって「御つぼねの内」なる貴人が誰方ともよく承知で聴聞に出、後日の楽屋落ちも耳にしている。私は、ここに女房延政門院一条と、その背後の御簾内深くに事を構えたあの「こひしく」の延政門院、さらにその傍らには野宮を退下された奨子内親王の静かなお姿もあったと読んでみたい。そうあってこそ兼好の生涯忘れがたい「自讃」にこもる、深い歓喜の情までが面白く汲みとれてくる。これはとても道心の堅固と関係のない、彼の肉に、魂に食い入った忘じがたい体験を、さりげなく自讃し満足し回顧しているのだ。私はこの「二月十五日」を後二条帝崩御の翌延慶二年(一三〇九)兼好(かねよし)二十七歳早春と考えている。
 堀川具守は娘基子によって後二条天皇の外祖父となっていた人物だが、後二条天皇崩御されれば、成ろうなら後の後醍醐天皇との親近もはからねばならず、後醍醐とは同腹の妹に当たる奨子内親王と、たとえば孫具親との縁組などを画策していた可能性がなくはない。短い間のこととはいえ、その際に、延政門院一条の存在が、具守・兼好主従に微妙な役どころを演じたかと推測すれば、『徒然草』本文からも家集の贈答歌からも、在俗のころの兼好にとって身に絡むような沁む人間関係の、或る一角がにわかに明るく照らし出されて来る。
 しかし、具守の画策は成らず、また兼好と一条との空しくされた恋の行方もしかとは見定めえない。「しづかに思へば、よろづに過ぎにしかたの恋しさのみぞせんかたなき」と第二十九段に呻いている兼好だが、遅くも応長元年(一三一一)には、彼は東山ないし比叡山横川へ隠栖している。延政門院一条をめぐって主君と愛人とのまえに「従者」の辛苦をなめた兼好は、おそらくこれに先立つ延慶二、三年、二十七、八歳で積年の素志を遂げ、出家遁世していたにちがいない。
 そして文保元年(一三一七)春、具守をしのんだ一条との歌の贈答があった翌年には、後醍醐天皇の即位、頼みに思う兄兼雄の死去が相次ぎ、やがてかの奨子内親王の剃髪ということまでが重なった。
 私は、兼好の傷心を一段と深める延政門院一条その人の死がこの直後にさらに加わったと思う。それがまずまちがいなく、庚申の歳、すなわち元応二年(一三二○)のことであり、ここに「かの、得ざる妻」を追憶と鎮魂との動機(モチーフ)で、一気に『徒然草』は第四十四、五段まで書き上げられたものと推量する。奇しくも、この年は『続千載和歌集』に兼好法師の一首が採られ、勅撰歌人として世に知られ初めた年ともなった。三十八歳であった。
 斎王への遥かな憬仰に発して延政門院一条との失恋により出家し、その一条の死を中心に南北朝動乱を目前に思い入れて『徒然草』執筆に入ったとする推定で、私は、兼好の青春時代から出家・執筆に約十年の幅をみながら時間的に縦につながる一連の事柄が、かなり力強く理解できると、今も考えている。そう読んで『徒然草』から私は、一種愛の挽歌を聴くのである。その思想の深さ、面白さ、独特の温かさについては読者自身の読みで確かめて欲しい。