先般の小山敦子先生の件、伊藤鉄也氏がこんなことを書いていた。
http://genjiito.blog.eonet.jp/default/2010/03/post-dd0d.html
 なお「英訳蜻蛉日記について」(『國文學』第2巻10号)はサイニイでは見つからず、代わりに「蜻蛉日記が作者にもたらした「転機」--皮肉・諧謔を手がかりに」小山敦子 國文學 2(10) 1957-10)があるのだが、これとは別個にあるのだろう。
 池田亀鑑が1955年に、小山を無視した文章を新聞に書き、それは小山を嫌っていたからだろう、とある。池田は58年に死去し、小山が臼井の本で、池田による弾圧を明かしたのは61年のことだ。
 だが私には引っかかることがあって、森本元子先生の年譜(『和歌文学新論』明治書院、1982)に、1950年、サイデンステッカーから『蜻蛉日記』英訳について折々相談を受ける、とあることだ。森本先生は池田亀鑑を深く敬愛していたらしく、池田死去の際は、恩師を喪って悲嘆にくれるとある。小山はのちハワイ大学に行くくらいだから英語もでき、サイデンも自ずと小山を頼るようになったのだろうが、池田としては愛弟子森本元子をさしおいた小山と写っていたのではあるまいか。
 さらに1957年10月『國文學』の「徒然草原形本の出現」を見た。これは随筆だが、いかにも文章が、生意気である。臼井が引用していた箇所の前には、久松潜一が、「「それでとう〜〜実証できたわけですね」とにこ〜〜して下さつた、久松先生の御温顔を思ふと今も胸があたたまる」とあって、そのあと、池田に阻止されたところでは、一度も「池田」とは書いていないので、あとまで読まないと久松のことかと思ってしまうくらいだ。
 ほか、十年黙って待った私をかわいそうだと思ったのか、某先生のはからいで東常縁本が見られたともあり、この件についても、できるだけ早く発表すべきだと、どの先生もおっしゃる、とある。当時東大国文科にいたのは、時枝誠記、市古貞次、五味智英、そして新任の秋山虔で、退官したばかりなのが麻生磯次である。最後に小山は、自分は徒然草には何の魅力も感じないと、憎まれ口を叩いている。
小谷野敦