私は、連合赤軍あさま山荘事件について、オウム真理教の地下鉄サリン事件と同様の、あるいは三島由紀夫の自衛隊乱入割腹事件と同様の、愚劣な、無意味な事件だとしか思っていない。ただし、フランス革命についてはそう思っていない。これらが愚劣なのは、結局は社会全体や国家の変革などまったく成し遂げられず、単に人が集団を作って何かを信奉して蹉跌した際の、行き場を失った精神エネルギーが起こした病的な事件だからである。のみならず私はドストエフスキーの『悪霊』についても、何の関心もない。
連合赤軍事件については、高橋和巳の「内ゲバの論理」を一読すれば用は足りる。人間はどうやら、集団を作ると狂気に陥るものらしい。むろん、孤独であることによって陥る狂気もあるが、私は中庸を尊ぶから、いずれもよしとしない。集団がもたらす狂気は、単に狂気なのであって、私はあさま山荘事件の連中に何一つ共感するところはない。人殺しども、と思うだけである。
大江健三郎の『洪水はわが魂に及び』は、大江としてはもっとも愚劣な作品だといえよう。これは結局テロリストの肯定になっているからである。立松和平の『光の雨』は、刊行当時私は新聞の文藝時評めいたものをやっていたから読んだが、そもそも関係者が生存していて手記もある最近の事件を描くのに、なぜ小説という形式にする必要があったのか理解できない。小説家がノンフィクションを描いても誰も文句は言うまいに。結果として『光の雨』は、全共闘世代の感傷とノスタルジーに満ちた不出来な作品、無様な作品でしかなかった。
私はどうやら生まれついての個人主義者らしい。こういう、集団の中にいる人間の心性というものが、まったく理解できない。むろんそれは、企業であれ大学であれ学会であれ同じことだ。文学史におけるナップとコップとか、原水禁と原水協の対立とか、集団というものの愚劣さを如実に体現したものだと思うばかりである。
さるにても、ふだん自民党など明らかに支持していない人が、総理辞任騒ぎについて批判したりするのはおかしいだろう。支持していない政党なら、その人にとってはダメな集団であるはずで、ダメな集団の長のやることがダメなのは当たり前で、そもそも君らがすべきことは、そのダメな政党を五十年間にわたって第一党として選んできた日本国民を「愚民」と罵ることなのだよ。
(小谷野敦)