大仏次郎賞と大仏次郎論壇賞は違う!

 どうもこの二つを混同する奴が多くて、中島岳志を「大仏次郎賞受賞」とか書いているんだよなあ。大仏次郎賞というのは30年以上の歴史があって、だいたい二人程度、小説と評論の大著が受賞するもので、一般的には六十過ぎてないともらえないくらいの(最年少は中島秀人の41歳)、朝日新聞系の大御所賞であり、論壇賞のほうはまだ十年はたっていない、どっちかというと新人賞である。
 仮に論壇賞を省略して「大仏次郎賞」というのは、そりゃ本物があるんだから困る。

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 島津久光というのは、どういう人物なのか分からん。大河ドラマ翔ぶが如く」では高橋英樹が久光で、「篤姫」では斉彬をやっていたが、「翔ぶが如く」では、だいたい司馬遼太郎の原作は明治から始まっているので、短編「きつね馬」(『酔って候』収録)に基づいているのだが、斉彬の急死後、西郷らが処罰されている間、久光は何をしているのか全然分からなかった。だいたいが久光は「お由羅の子」であるから、大久保のようにお由羅騒動でひどい目に遭った連中にとっては敵である。こないだ西郷が久光に面と向って「ジゴロ」(田舎者)と言って怒らせていたが、あれは「きつね馬」で、御前を下がる時に呟くように言ったとあり、ドラマ「翔ぶが如く」では久光の前を下がった後で小松帯刀らに言うことになっていた。まあ司馬が書いたのだから史料があるのだろう
 しかし分からんのは維新後の久光で、ドラマ「翔ぶが如く」では、廃藩置県に怒って花火を上げさせるのだが、「きつね馬」では版籍奉還の時のことで、こちらが史料に基づいたものだろう。しかも海江田信義有村俊斎)がその時脇にいるのだが、「きつね馬」にもそんなことは書いていないし、海江田はその頃、廃藩置県奈良県知事を解任されていたところで、その後鹿児島へ帰ってから久光の呼び出しを受けるのだから、あの時いるわけがない。その後も勅使が鹿児島へ下向する時に西郷がついていくのだが、ついていったのは海江田のはずだし、その後も久光の指令で西郷を詰問に行ったり(しかもその間ずっとちょん髷姿)、いったいドラマ「翔ぶが如く」の維新後の海江田はどこまで史料に基づいているのかとんと分からん。
 久光は、幕府が倒れてからも、「島津幕府」を開くつもりで、廃藩置県に怒ったのを宥めるために左大臣に叙しているが、いつでも、兄斉彬を尊敬していると言いつつ、やはりどこか間抜けな人物だったのではないかという印象が拭えない。もちろん司馬も、そういう人物として描いているのだ。
 (小谷野敦