松浦晋也とやら

 今日も暑い。暑いのに書店へ行って不快な新刊を二つも見てしまった。一つは岸田秀の『性的唯幻論序説』の文庫版。だいぶ書き足したようだが、「強姦・買春をするのは人間だけ」とか、相変わらずインチキなことが書いてある。オランウータンも強姦をするのはよく知られているし、チンパンジーだって交尾を頼むために牝にプレゼントするんだから。
 もう一つは川端裕人が文庫にならないとぼやいていた『ニコチアナ』の角川文庫版だ。まあこの小説自体は、嫌煙運動家のキチガイぶりも描かれていて、そう悪くはないのだが、これも書き直しがあるようだが、買うほどの気は起きない。松浦晋也とかいうノンフィクション作家が解説を書いていた。そこで松浦は、かつてタバコは、時間を分節するという神聖な意味を持っていたが、紙巻煙草の出現でそういう意味が消えて堕落したと書いている。もっともこれは、作中の人物が語ったことを敷衍しただけかもしれないが、言っておくが、私は今でも煙草を吸うことで時間を分節している。そうでなければ時間的空間恐怖症に耐えられないよ。サルトルの「我有化」だってそういうことで、別にサルトルはあそこで、紙巻煙草ではこの作用は起こらないなどと書いてはいない。川端はサルトルを読んでいるが、松浦とかいう奴はサルトルを読んだのだろうか。(それと既に指摘済みであるが、ここで開発されている「無煙たばこ」なるものは、1990年代に既に発売されて、売れなかったので販売中止になっている。松浦、知らんのか)
 ていうか、この禁煙ファシズムの中では、むしろパイプとか葉巻はさらなる迫害に遭っているはずだがね。まあいつの時代でも、ご時勢に迎合する連中はいるということだ。こないだ読んだ長谷川公昭の『ナチス占領下のフランス』なんか、いかに多くのフランス人がナチスに迎合したか書いてあって面白かったね。
 
 話は変わるが、郵便局のATMが、終ってちょっと早く立ち去ると「お忘れものがございます」と言うのだが、あれは狼少年みたいなもので、本当に忘れ物があっても効果がなくなる、という奴だ。これは本局に電話して、やめてくれ、と言った。本当に忘れ物がある時だけ言えばいいではないか、と言ったのだが、いっかな聞き入れない。小面憎いのは、「どうぞご理解ください」と繰り返すところで、意見が相違しているということを認めさせない、その官僚的なやり方で、だからしょうがなく私は「理解しない!」と叫んで電話を切った。こういう末端の人間をどなりつけるのはやめろと言われても、じゃあ郵便会社の社長とか、京王や小田急の社長が電話に出るのか。「社長を出せ」と言ったことはあるが、出てきやしないではないか。では本社へ出かけていって「社長に会いたい」と言えば会わせるのか。親玉に会わせない以上、末端を怒鳴るしかないだろう。戦の時に、兵隊は殺さない、マッカーサーだけを殺すのだ、などと言っていられまい。