「マックス・ヴェーバー論争」について以前ここに書いた文章を、まとめを行っている北大の橋本努氏に送ったところ、掲載されました。
http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Japanese%20Index%20Max%20Weber%20Debate.htm

 さて、久しぶりに新潟大学三浦淳(あつし)(三浦あつしって人は多いね)のサイトを見たら、「一限の授業を持たない専任教員は給料を一割減らすべし」と書いてあった。そういう発想にはまったく賛成である。まあ私が専任だったら(永遠の反実仮想)、一限などやるのは嫌だから一割削減してもらう。ところが世間というのは、こういう取引をものすごく嫌がるのだが、これは日本だけの現象だろうか。
 たとえば教授でも、研究がしたい人、研究はもう能力がないから事務がしたい人、政治がしたい人などいるから、「研究教授」と「事務教授」に分ければいいのだが、そういうことをしない。あるいは東大駒場なんて、全員が語学や一般教養から大学院まで教えるから(それとも理系は違うのか?)大変なのであって、いっそ前期教養課程は旧制高校扱いにして、前期課程専門の教授と、後期と大学院担当の教授に分けてしまえばいい。しかしそういう「身分分け」は絶対やらないのだ。
 あるいは「タバコを吸う者は給料一割削減」でもいい。私はその手の取引には応じる。「削減証明書」かなんか貰って、どこででも自由に吸うのだ。JR東日本だって、喫煙車両は汚れるというなら、運賃を上げればよろしい。どうしてこう「みんな一緒」でないと気がすまないのかね。

 宮本輝楊逸の授賞に反対したらしい。『文學界』には高樹のぶ子によるインタビューがあるのだが、確かに「時の滲む朝」には、「光抱く友よ」と似たようなところがある。それはいいとして、楊は、小説というのは社会を描くものだと思っていたから、日本の小説を読んで、自分のことばかり書いてあるので驚いた、と言っている。それは社会主義リアリズムというものだ。実は私は、張競さんが恐らく最初に発表した論文を合評会で酷評したことがあって、それは社会主義リアリズムで馬琴を批判したりするような論文だったからである。社会主義リアリズムがあってもいい、と言いたいところだが、社会主義というのは、それ以外のものを認めないから社会主義なのであるから、そうは行かないのである。

 芥川賞を受賞しながら表舞台から遠ざかり、ガードマンや夜警をしながら貧しい生活を続けている沖縄出身の作家がいる。十年ほど前、上原隆が久しぶりに取材してその生活ぶりを伝えた。
 その作家の四年前の随筆集『貧の達人』(たま出版)を読んで、衝撃を受けた。知っている人は知っているのだろうが、この作家は明らかに精神を病んでいる。宇宙人がどうとか言うのも、ちょっとしたオカルト好きの範疇ではない。もう遥か以前のことだが、トルストイの言葉を小説に引用しようとしたら編集長に止められたが、直訴して載せてもらったという。作家は「反動的な言葉」と書いているが、それは「反体制的」という意味らしい。そしてそれが反資本主義の思想なので公安警察にチェックされ、公安のブラックリストに載って、以後追跡を続けられたと信じている。
 この作家が消えたのは、生き方下手とか作品がダメだとか以前に、精神を病んでいるからだということが分かった。この本が出た頃、「沖縄タイムス」に寄稿しているが、まあかろうじて、作家的な奔放な空想力、と認められる程度に抑えられてはいる。
 (小谷野敦