事実は一つである

 江藤淳の『批評と私』という本に「ペンの政治学」という文章が載っている。1984年に日本ペンクラブ反核声明を出した時に、江藤がそれを政治的でありペン憲章に違反しているとして批判したものだ。その中に、会議に遅れていった江藤が反対を表明すると、三好徹が「理由を聞こうじゃないか、理由を」「おれたちは、政治的じゃないという解釈なんだけどな。まあ、政治的と思う人がいるんなら、仕方がないや。個人の自由だからな」と言ったと書いてある。
 今では、ばんすか政治的な声明ばかり出している日本ペンクラブだが、それもみな、政治的ではないという解釈なのだろう。ところがこの文章には付記があり、あとで三好から、テープを聴いたら自分の発言は違っていたから訂正してほしいと言われたとあり、「しかし、それにもかかわらず私は初出のテクストを変更しなかった。なぜなら文学者は、テープレコーダーの音声によってではなく、自己の記憶によって他人の発言を記録するからである。(略)みずからも作家である三好徹氏が、そのことを知らぬはずもない…」とある。
 私はこの文章を読んだ時から、これは江藤さんがおかしい、と思っていた。事実は、テープレコーダーに録音されたとおりであり、それを変更してはならないのが文学者だと私は思う。
 ところでこの後、江藤の反対はどの新聞も報道しなかったという文章に対して、毎日新聞学芸部の桐原良光から、毎日は報じたと抗議を受けた、とあり、そちらは記してある。江藤は、文学者は新聞記事のコピーではなく、自分の記憶によって書くのだ、とは言わなかった。
 ついでに言うとこの桐原というのは、今では日本文藝家協会の書記局長をしていて、2001年に『井上ひさし伝』を上梓している。生きているうちから伝記が出るなどというのは、さぞその人物は権力者で、書いた人はその権力者の腰巾着なのだろう、と、知らない人でも思うだろう。
 さて一昨日日曜日、朝日新聞に拙著『日本売春史』の書評が出た。カラタニ…じゃない唐沢俊一氏によるもので、唐沢氏にはお礼申し上げる。しかしその最後に、この本から読者は「歴史の事実というものは一つだけではなく、見方によりいく通りもの解釈が出来るということが学べるだろう」とある。しかし、そういうことを学んでもらっては困る。これは、間違いだからである。「解釈」は複数ありうるだろうが、「事実」は一つである。つまりこの文の前半は、歴然たる誤りである。その事実を把握することが困難だというのは、事実が複数あるというのとは別のことである。物理的な事実は一つであって、テープレコーダーが録音した三好の語が事実なのであり、その物理的事実を、個々人がどう解釈したかについては複数あるわけだが、その「事実」が複数あるというのは、間違いである。これは念を押しておきたい。また唐沢氏や、しばしばそういうことを主張する上野千鶴子氏などが、物理的事実すら複数あると主張するなら、私にはっきり反論してもらいたい。

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西村賢太の新刊『二度はゆけぬ町の地図』を読んで、ああこれは西村氏に済まないことをしたと思ったのは、『文學界』の今年一月号で西村氏の作品を論じた時、既に『野性時代』にうち二編が発表されていたのに、それを知らなかったために、純文学雑誌発表の作品だけ読んで的外れなことを書いていたからである。何しろ『野性時代』の収録作品は国会図書館の雑誌記事検索でも出てこないし。とにかく、西村氏にはお詫び申し上げる。
 (小谷野敦