広瀬さんのこと

『広瀬雅弘著作集』一巻が刊行された。私家版だが箱入りの本である。
広瀬さんは阪大時代の先輩同僚で、いちばん信頼していた人だ。2004年春、脳腫瘍で52歳で亡くなってしまった。阪大を辞めてからもつきあいは続いていたが、その二年ほど前から、目がかすむ、と言って困っていた。それが脳腫瘍だと分かって手術した時にはもう手遅れだったようで、急逝してしまった。
それで同僚たちが論文を集めて著作集を出したのだ。
いま同書に附された年譜を見ると、
1952年、富山県生れ
1971年、富山高校卒業
1973年、東大文科三類入学
とあるから、二浪したのだ。見かけによらず、不器用な人だった。
1977年、文学部第三類卒業
とある。四年で卒業しているが、英文科卒となっていない。この書き方は、卒論を書かずに卒業する時のものだ。
それから東芝に就職して、78年7月まで在職とある。そして79年四月、大学院英文学専攻に入学だ。企業に合わず、勉強して入学したのだろう。もっとも私が聞いたところでは、シナリオ教室に通っていたというから、この間のことかもしれない。
1981年、博士課程進学、とある。この年、小津次郎が退官したはずなので、小津の指導だったろうが、小津次郎と小津安二郎の親戚関係を、私はつい先日ようやく推定確認したところで、広瀬さんが生きていたら教えてあげたかったなあ。それとも知っていたのかな。
1983年から東京歯科大学英語科助手、とある。その12月には助教授になっている。予備校で教えていて結構貯金はあったと言っていた。それで
1987年、立命館大学法学部助教
なのだが、聞いた話では、書いた論文がひどい攻撃を受けて東京にいられなくなった、と言っていたが、亡くなる数年前、東大英文学の集まりの酒席で高松雄一と大喧嘩したというから、高松氏に嫌われたのだろう。その時弁護してくれたのが、早くに亡くなった中野里先生だったという。それで1991年、阪大言語文化部助教授だ。私が行く三年前のことだ。
広瀬さんが、目がかすむ、と言っていた時、みんな、ちゃんと悪い病気を心配してあげなかった。広瀬さんは映画の好きな人で、ゼミでも映画を観せていた。神経を病んでいた私はそのゼミに出てずいぶん元気づけられたっけ。先日、新藤兼人の『母』を観たら、子供が目がかすむと言って、実は脳腫瘍で、最後に死んでしまうのだが、広瀬さん、この映画のこと、知らなかったのか、それとも気づいていて、怖くて徹底検査できなかったのか。あと二年早く、精密検査をしていたら、助かったかもしれない。
見た目は豪快なのに、不器用で、気弱な人だった。いい人ほど早く死ぬんだ。

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コンセプシオン」という女性名がある。イスパニア系だが、これはイマキュラーダ・コンセプシオン、無原罪のお宿りという、聖母マリアが母アンナの胎内に宿った時から原罪を免れていたという思想に基づいている。それを知らないと、「妊娠」なんて、なんという名だということになる。チリやパラグアイに「コンセプシオン」なる都市があるのも同じ。しかしイマキュラーダを忘れて「インキュブス・コンセプシオン」とやると淫魔が寝ているうちに妊娠させたみたいになってしまう。クライストの「O侯爵夫人」は、 それこそ気を失っている間に妊娠する話だが、クライストには『こわれがめ』なる、処女が破られたことを瓶が壊れたことで暗示するへんてこな戯曲もあって、そっち系の妄想が強かった人だと思う。