八木秀次と西尾幹二が骨肉の争いをしている。今月の「諸君!」で西尾が八木を非難しているが、そこで、八木には天皇崇敬の念が足りない、新しい歴史教科書をつくる会の会長にふさわしいとは思えないと書いている。かくして遂に西尾は、「自由主義史観」なるものが、自由主義などではなく、皇国史観ないし天皇崇拝史観であることを明らかにした。なぜ日本では、天皇を崇拝せずにナショナリストであることができないのか。
さて、そのこととは別に、私は近年の西尾の文業におかしなものを感じずにいられない。たとえば新しい歴史教科書編纂に加わっていた歴史学者・坂本多加雄が死んだとき、西尾は「愛国と靖國--追悼・坂本多加雄」(『諸君!』2003.1)という追悼文を書いた。そこで西尾は、末期がんだと知らされた坂本ががっくりと意欲を失い、恐怖の発作で夜中に外へ飛び出し、夫人が懸命にとりおさえた、というようなことを書いた。そういうことは、知っていても書くべきではないと私は思う。何も従容として死を迎えたと書かなくてもいいが、そんなことを書いて死者に恥をかかせて何になるのか。
上野千鶴子への批判もそうである。品性がないだの、上野の著書をちゃんと読んだことはないだのと書くばかりで、なぜ堂々と上野の著作の内容に議論を挑まないのか。西尾はひたすら「保守派」のイメージダウンに貢献しているばかりである。