作家・大崎善生が『パイロットフィッシュ』(角川書店)で吉川英治文学新人賞をとった時、(というかそれまではノンフィクション作家だった)私は『週刊朝日』の連載「受賞作を読む」でとりあげて、「村上春樹の亜流」と批判し、「村上春樹病」という見出しがついた。同誌発売日の夜、担当編集者から抗議の電話があった。「納得できない」と言う。「大崎さんのお母さんがあれを見て、お前どんな病気にかかったんだい、と言ってきたそうです」。はあ!?「他人を病気呼ばわりするのは人権侵害じゃないですか」。はあ!?「これまで、多くの新人賞で、これは村上春樹の亜流だといって受賞が退けられてきた。小谷野さんもご存知でしょう」「いえ、知りません」「えっ。・・・だから、村上春樹亜流だなどと言うこと自体が既に陳腐なことなんです」。はあ!?
しばらくおとなしくこの編集者の意見を拝聴した後、「批評に対しては活字をもって当人が答えればいいことで、電話で抗議すべきもんじゃないでしょう!」と怒鳴りつけて電話を切った。
さて、拙著『反=文芸評論』に関して、春樹批判があるから文藝春秋から出なかったのだという憶測を述べている者がいるが、あれは書き下ろしであるから、それは事実ではない。連載そのものの単行本化を文春で断ってき、書き下ろしを付して新曜社から出したというのが真相である。なお、坪内祐三『文庫本を探せ!』(晶文社)のあとがきを見れば、これも『週刊文春』に連載されながら文春からは出してもらえなかったことが書かれている。特段私が忌避されているわけではない。
その大崎が、1月から禁煙(「断煙」が正しいだろう)を始めたと「週刊現代」の連載エッセイで書いていた。一ヵ月半たってなお禁断症状に苦しんでいるという。始めたのは、大作を書くためには体力が要ると思ったからだと言う。禁断症状に苦しみながら短篇を一つ、1月7日に書き上げて、以来小説はひとつも書けないという。ムリだと思うぞ。吸いながら書く習慣がついてそれだけ深いニコチン中毒なら、もう書けない。
谷崎潤一郎は五十歳で断煙したというが、それは医者から酒かタバコかどちらかやめろと言われて、酒はやめられないからやめたという。
で大崎だが、今月の『ダ・カーポ』の連載で、変なことを書いている。喫煙可の店が少なくなってきたため、そういう店が煙くなってきたと言うのだ。おや、断煙は失敗したのかな、と思ったらそうでもないらしい。あげく、煙の苦手なタクシーの運転手が気の毒だとか、フランスでさえカフェを禁煙にしつつあるとか、日本ではなぜタバコがこんなに安いのか、タバコ問題が立ち遅れていると、禁煙ファシストの提灯持ち文を書いているのだが、吸わないのなら喫煙できる店など行かなければいいのだし、同行者が吸うので行かざるをえないという場合もあるだろうが、それにしては妙にしげしげと喫煙可の場所へ行っているような印象を受ける。自分がやめてからそういうことを言うのは「エゴイズム」というのではないか。小説の世界ではやたら繊細な人間を描いていても、現実には平気でこういう自己中心的な発想をするわけだ。また電話掛けてきたりしないように。(小谷野敦)