谷崎潤一郎詳細年譜(大正6年まで)

jun-jun19652005-06-03

1914(大正3)年          29
 1月、「捨てられる迄」を『中央公論』に発表。
 同月、下宿(どこ?)に家賃滞納者として谷崎の名が張り出されているのを江口渙目撃。(月報江口)
 2月、鴎外「堺事件」『新小説』に発表、読む(「当世」)。精二、ガルシン『赤い花』海外文芸社より刊行。
 3月、『甍』(「憎み」初出と「熱風に吹かれて」)を鳳鳴社より刊行。後藤「桐屋」を『三田文学』に発表。
 4月、戯曲「喜劇 春の海辺」を『中央公論』に発表。笹沼夫人が少々谷崎に惚れていたという噂があり、それに取材したものか?(細江)
 6月、小野賢一郎『新聞記者の手帳 第一集』(美人大学社)に序文を寄せる。
 7月12日、京橋区仲通町の美術展画博堂主催の「怪談会」に出る。鏡花、岩村透、黒田清輝、岡田三郎助・八千代、長谷川時雨、柳川春葉、左団次、幸四郎河合武雄、喜多村、吉井、長田兄弟、綺堂、紅蓮洞、松山省三、鈴木鼓村ら。
   28日、第一次世界大戦勃発。
 8月、精二『ゲエテ物語』実業之日本社より刊行。後藤「邪慳」を『新潮』に発表。
   20日、「饒太郎」を脱稿、マゾヒズムもの。
   23日、ドイツに宣戦布告、大戦に参加。
 9月、「饒太郎」を『中央公論』に発表。
 12月、現代代表作叢書第三編『麒麟』を植竹書院より刊行。
  佐藤春夫、藝術座の女優川路歌子(遠藤幸子)と同棲。
 精二、アナトール・フランスの訳『タイス』を植竹書院より刊行。
   4日から17日まで、「金色の死−−或る富豪の話」を『東京朝日新聞』に連載。

1915(大正4)年          30
 1月、「お艶殺し」を『中央公論』に発表するが、鴎外が「谷崎もああいう調子の低いものを書いてはおしまいである」と言ったのを、鴎外の子らにフランス語を教えていた後藤末雄から聞く(「雪後庵」)。
 精二、「或る日の悲しみ」を『新潮』に発表。
   2日、「懺悔話」を『大阪朝日新聞』に発表。
 2月、『文章世界』に中村孤月(35)の「谷崎潤一郎論」。
   友人の茂木良平を連れてかかしやに上山草人を訪ね、弟子にしてくれと頼む。草人ははじめ自分をモデルに小説を書くつもりではないかと疑う。
 4月、「創造」を『中央公論』に発表。後藤「雨もよひ」も同号に掲載。同月、幹彦『祇園夜話』刊行。
   8日から5月7日、歌舞伎座で十五世市村羽左衛門(41)の水入りのある助六を観るが、羽左衛門は四十度の熱があったという。揚巻歌右衛門、意休八百蔵、くわんぺら勘五郎改め仲蔵(「直木君の歴史小説」)
 5月、「花魁」を『アルス』に発表するが、風俗壊乱のゆえに発禁となる。現代名作集第十四編『秘密』を鈴木三重吉方から刊行。
   精二、「蒼き夜と空」を『早稲田文学』に発表。
   24日、情人のもと藝者小万、向島新小梅で「嬉野」をいう料理屋を営んでいたお初の妹で、群馬県前橋市出身の石川千代子(元藝者、20歳)と笹沼夫婦の媒酌で、浅草田圃草津亭で結婚式を挙げ、本所区新小梅町四番地一六号に住む。千代は小林家に生まれたが、母が一人娘で小林家に嫁いだので、前橋市の母の両親の養女となった。小学校卒、養祖母サダが藝者置屋「菊小松」を営んでいたので、十六、七で藝者になった。当初、姉の本名と同じ初子という名で出ていた。一度妾になったが、旦那が死んで上京していた。お初と谷崎は学生時代からの知り合いで、よく「嬉野」へ行っている内情人になったが、お初には旦那もあり年上だったので、妹を谷崎に勧めたのである。
 6月、戯曲「法成寺物語」を『中央公論』に発表。『お艶殺し』を千章館より刊行、山村耕花の装釘挿画。同月から9月まで「帳中鬼語(ノートブツクから)」を『社会及国家』に連載。
   24日、浅草の大金で惜春会が開かれ、出席。鏡花、臨川、白鳥、阿部次郎、小山内、久保田、杢太郎、秀雄、天外、灰野庄平ら。同日、白秋宛、この会を断って原稿を書くつもりでいたが久保田から催促され一、二日遅れる。
 8月、伯父久兵衛、長男の商売の失敗の責任をとって、伊豆大島通いの船から投身自殺(精二)。終平によれば伊豆行きの船。その前に倉五郎と終平を呼んで別れの杯を交わした。谷崎は小田原にいたので遺体の引き上げに立ち会った(終平)。
 精二、『萬朝報』記者を辞す。
 両親は箱崎町の家を引き払って蠣殻町の伯父の店に移る。今までとは打って変わった大きな家で、電話が三つあった(終平)。
 9月、「お才と巳之介」を『中央公論』に発表。再び鴎外に叱られるが、瀧田は気に入る。
   17日、精二宛手紙で、結婚を後悔しており、金のために「お才と巳之介」という悪小説を書いた、精二が結婚を言いだしたのに対して、当面しないように、と助言。
 既にこの頃、姉初子の小石川原町の家にいた小林せい子(明治35年3月26日生、14)が出入りしていたか。
 10月、情話新集第六篇『お才と巳之介』を新潮社より刊行。『女の世界』に「女難の谷崎潤一郎」なる匿名記事。
   精二、「地に頬つけて」を『早稲田文学』に発表し、武林無想庵に『時事新報』で激賞され、作家として立つ自信を得る。 
 11月、「独探」を『新小説』に発表、『小説二篇』をやなぎ書房から刊行。
  吉井『祇園歌集』刊行、表紙装丁は竹久夢二(32)。
   21日、芥川龍之介(23)、成瀬正一(23)と帝劇のフィルハーモニー音楽会へ行き、久米正雄に会い、休憩時間に二階の喫煙室のところで煙草を吸っている男を見かけ、久米から「谷崎だ」と教えられる(「あの頃の自分の事」)
 12月5日、長田幹彦宛、原稿料はいくらくらいで今年中にくれるか。大阪朝日の誰に問い合わせたらいいか。忘年会でもやらないか。大道弘雄(29)からの依頼。
   18日、大阪朝日大道宛、東京朝日で徳田秋声の「奔流」の連載のあと書くはずだった近松秋江が書けなくなったので引き受けた。大阪のほうの短編を書いてみようとしたがうまくいかず。
   27日、新小梅町から新潮社中根駒十郎(34)宛書簡、ダメになったと聞いて落胆、債鬼押し寄せ困っており、名刺を渡して沼倉忠兵衛という債権者をそちらへ行かせるので『お艶殺し』の印税前借りで渡してやってくれ。
 この年、パウル・ウェゲナー監督・主演の『ゴーレム』観て感心。ストリンドベルヒ『痴人の懺悔』(木村荘太訳、洛陽堂)を読むか。
 この年、精二は萬朝報社に勤める郁子と婚約。
 この年あたり、伊勢と末の養父万平、「田舎の料理屋の、あまり素性が良くない女に」男児を生ませ、家に入れるが、夫婦仲悪くなる。

1916(大正5)年        31
 1月、「神童」を『中央公論』に発表、「鬼の面」を15日から5月25日まで『東京朝日新聞』に連載。アンケート「酒」を『文章世界』に。
 同月、『婦人公論』創刊、主幹嶋中雄作。
 2月、代表的名作選集第十八編『お艶殺し』を新潮社から刊行。「創作前後の気分」を『文章世界』に掲載。
 同月、芥川龍之介久米正雄らの第四次『新思潮』創刊。
 3月、戯曲「恐怖時代」を『中央公論』に発表、発禁となる。「創作前後の気分」の部分再録「机に向ふ時」を『新潮』に掲載。『新潮』の特集「新進十家の藝術」のアンケート「多少読んで居る人」に、志賀、武者小路、里見は読んでいるが、精二は「月の下にて」と「幸福な死」しか読んでいない、この四人については『文章世界』1、2月号の赤木桁平(26)の意見に同意、豊島のは最近一つだけ読んだ、と答える。
   14日、長女誕生。 
   22日、長女鮎子を庶子として届け出。岸巌の命名か。後に「鮎」は漢語では鯰の意味だと聞かされ、「あゆ子」と書くようになる。終平は嫂が好きでよく歩いて会いに行ったという。
 春、ゴーチエ『ボオドレエル評伝』を英訳で読む。
 4月の『中央公論』が「谷崎潤一郎論」を特集、赤木、精二、本間久雄、白鳥、幹彦、上司小剣(43)、加能が執筆。『新潮』には秦豊吉(25)の「最近の谷崎潤一郎論」。
 5月、「父となりて」「発売禁止に就きて」を『中央公論』に発表。前者は平塚らいてう(31)の「母となりて」と組み合わされ「初めて人の親となりて」の小特集、妻に恋して結婚したわけではない、子供など欲しくなかったと書いたため、非難を受ける。後者は「出版物取締に関する当局の態度を論ず」として、中村吉蔵、岩野泡鳴らが寄稿。
 6月、「ボオドレエルの詩」を『社会及国家』に掲載。名家近作叢書第二輯『金色の死』を日東堂から刊行、近代傑作叢書第一編『神童』を須原啓興社から刊行。
   8日、中根宛書簡、金がいるので三十円送って貰いたく、今月一杯に『新潮』向け創作を書く(「美男」)。『中央公論』は九月号に書く約束で既に借金済み。
   小石川区原町十五番地に転居。
 7月9日、上田敏死去(43)、谷中斎場での葬儀に参列、帰りに小山内、杢太郎、長田秀雄と本郷の方へ歩いていくと、鴎外が俥で追い越してゆく。
   29日、中根宛書簡、原稿送った、九月号掲載頼むが来月十日頃まで秘密に願いたい、金送ってほしい。
 8月、「一人一景(旅の印象)」を『文章世界』に発表。
 この頃、「異端者の悲しみ」を脱稿するが、発禁の恐れがあるというので中央公論社で保留され、警視庁警保局長・永田秀次郎(青嵐)に内検分をして貰い、翌年発表される。 同月、赤木桁平、『朝日新聞』に「『遊蕩文学』の撲滅」を掲載し、秋江、後藤、久保田、吉井、幹彦を攻撃する。荷風と谷崎はなぜか攻撃されず。後藤は一年間沈黙する。
 9月、「亡友」(晶川のこと)を『新小説』、「美男」を『新潮』に発表、ともに発禁となる。『刺青他九篇』を春陽堂から、『鬼の面』を須原啓興社から刊行。
   21日、木下杢太郎南満へ出発するが見送らず。長田秀雄と美術院展覧会へ。長野草風に会う。
 10月28日より翌年3月27日まで、精二、「離合」を『読売新聞』に連載。
 11月、「病蓐の幻想」を『中央公論』に発表。
 12月、町内の十三番地に転居。
  精二、翻訳、メレジコウスキイ『先駆者』早大出版部より刊行。
   9日、夏目漱石没(50)。

1917(大正6)年       32
 1月、「無韻長詩 人魚の嘆き」を『中央公論』に、「魔術師」を『新小説』に発表。   3日、「種 dialogue」を『福岡日日新聞』に発表。
   6日、対話「既婚者と離婚者」を『大阪朝日新聞』に発表。
 同月、佐藤春夫(26)の「西班牙犬の家」が『星座』に載るが、この頃から佐藤を認めていたという。
 同月、演伎座の楽屋で、草人と、愛人の女優・衣川孔雀(22)と鳥鍋を食す。
 同月、芥川来訪。両者菩提寺を同じくする。
 同月、精二が『新潮』に載せた短編「妹」が伊勢(19)のことを書き、早世した園よりは幸福だと書いた。千代が伊勢に雑誌を送り、伊勢、自分は幸福ではないと精二に手紙を書き、精二は父に、伊勢を呼び戻すよう提案するが、養育料などを払わなければならないと反対される(「さだ子と彼」)。伊勢、精二と親しみを増す。
 月末、浅草の常盤座でオペラ「女軍出征」を観るか。
 2月、戯曲「鶯姫」を『中央公論』に発表。
 同月頃、衣川孔雀が草人の許を去り、草人が訪れ苦悩を訴える。谷崎は慰めるため深夜自動車を走らせる。
 3月4日から4月11日まで「小僧の夢」を『福岡日日新聞』に連載。
 3月始め、吉井、長田秀雄らと吉原で遊び、山谷の「重箱」で飲み、その足で葛飾紫烟草舎に章子夫人と住む北原白秋(33)を訪ねる。
   23日、千代との婚姻届提出、この際千代を石川家から除籍させるため、妹のせい子を石川家養女とする。
 この春、萩原朔太郎から初めて手紙来る。朔太郎とは同年。
 この頃、両親、終平の三人で飛鳥山か荒川へ花見に出掛ける。帰宅後母の顔に腫れ物ができ、その際打った血清注射が悪かったらしく、死に至る(終平)。
 4月、白秋訪問をネタにした「詩人のわかれ」を『新小説』に、「玄奘三蔵」を『中央公論』に発表。「私の初恋」を『婦人公論』に、「詩と文字と」を『中央文学』に掲載、『人魚の嘆き』を春陽堂から刊行、名越国三郎の挿絵のため発禁となる。
   5日、手紙で芥川を慰める、と翌日の芥川林原耕三宛書簡。
   9日、精二宛書簡、昨日お前の所へ瀧田が行った筈、今度生活をシンプルにすることにし、妻の老母を田舎へ帰し、妻子は蠣殻町へ預ける、お前の結婚まで待っているつもりだったが待ちきれず、近日蠣殻町へ行って両親にも打ち明ける。同日、瀧田宛書簡でほぼ同内容、最近芸術的感興が起こっている。生活費を少なくしたい、一家離散だが週に一度は妻子を訪ねるつもり。
 同月、鮎子に種痘を受けさせるが、その後脇の下の淋巴腫れる。
 同月、千代と向島へ行き、駒形の草人を訪ねると元気で、何か原稿を書いている。
   27日、帝劇で「ハイ・ジンクス」を観る。
   28日、下谷の洋画家Kより使いあり、昼食の後、雨の中を赴き、O、S、Tなどの常連と花札。夕方いったん帰宅し、電車で帝劇のバンドマンを観に向かう。KとTが来ている。山村耕花(日本画家、32)、高村光太郎(35)に会い久濶を叙す。出し物は「田舎者兄弟の倫敦見物」。幕間にK、Tと、ブロンドのコーラス・ガールをどこかのホテルへ呼ぼうと相談。三河屋のバアの主人に相談すると、去年は帝国ホテルに泊まっていたが、今年は横浜から通っているから難しいだろうと言われ、落胆。廊下で小山内薫に会って相談すると、同意見。ここで衣川孔雀に会う。芝居はね、T、Kを見失い、清新軒で洋食を食し、尾張町の中屋でネクタイを一本買い、電車で帰る。父から葉書が来ていて、母が丹毒だと知らされ、悄然となる。
   29日、母の見舞いに行こうとすると千代が同行するというので止めていると父から再度葉書、千代は来るに及ばず、と。笹沼宅を訪れると夫人に慰められ、見舞いに赴くと千代が来ているので怒る。一時間ほどいて、一旦家に戻り、本郷弥生町の後藤末雄の茶話会に行く。後から豊島与志雄(28)来る。久米正雄生田長江を呼ぶが来ず、サンドウィッチを食べ、帰宅は夜11時。
   30日、鮎子の病気悪く、日本橋葺屋町のO医学士に相談して千代、鮎子を連れそちらへ向かうと、中学で同窓のI医学士に会い、大学病院で切開するといいと助言。千代らを帰して蠣殻町へ見舞い。岩田屋の伯母(半?)来ている。鳥のスープが欲しいというので、午後三時ころ偕楽園へ行き、スープを届け、帰宅。鮎子一晩中泣きつづける。
 5月、戯曲「或る男の半日」を『新小説』に発表。『文章倶楽部』「文壇諸家立志の動機」に、「『少年世界』へ論文」を寄せる。
   精二、「侮蔑」を『中央公論』に発表。
   1日、午前十時半、千代、下女と、鮎子を医科大学へ連れていき、切開手術。
   2日、昼過ぎ、西片町の長田秀雄を訪ねると不在、吉井勇がいて、昨日小山内、長田は有楽座より遊蕩に出掛けたと。吉井と共に森川町の徳田秋聲を訪ねると、泡鳴、中村孤月、中村武羅夫(32)現れ、花札。午後四時から田畑の自笑軒で、山本露葉、武林無想庵(38)の「たべる会」に行く。正宗白鳥(38)、秋聲、吉井。後から小山内現れる。長田は流連と言う。白鳥、秋聲、無想庵と秋聲方に行くと、泡鳴ら三人花札最中、十二時ころ無想庵と帰る。
   3日、母の容態安定と聞き、翌日から伊香保へ執筆に出掛けると言うと、千代、十日ほどで帰ってくれと言う。無想庵を訪ね、伊香保の旅館の待遇など聞く。二人で秋聲を訪ね、三人で豊国で夕飯。旅費を借りに春陽堂へ行くと、無想庵ついてきて、主人の和田を相手に谷崎を応援。帰宅後寝につくと、千代、泣きながら、私を疎んじているのではないかとかき口説く(「晩春日記」日付のずれは細江「上山草人年譜稿」)
   11日、伊香保の千明(ちぎら)仁泉亭に滞在中、朔太郎が室生犀星とともに訪ねてくる。両者初対面。朔太郎と同郷の千代は、その家は美人系だと言っていたという。
   14日、午後一時、母、心臓麻痺で死去(54)。伊香保ので母危篤の電報を受け取り帰京するも帰宅は夕刻、臨終に間に合わず。
 この頃、本郷の豊国で徳田秋聲に会う。秋聲、紅葉より露伴のほうが偉いというので谷崎驚く。(「夏日小品」)
   28、29日頃か6月上旬、芥川出版記念会の発起人になってもらうべく、佐藤春夫、江口渙(30)、赤木、久米、芥川が谷崎を訪れる。始めて佐藤を知る。武林無想庵、読売新聞の探訪記者加藤謙もいる。(6月13日、生田長江夫人の葬儀で、無想庵から佐藤を紹介されたという説もあり)。
 6月14日、千代と鮎子を蠣殻町に預ける。当初、月三十円送ると言っていたが、最初の一月しか送らず。
   27日、日本橋のレストラン「鴻の巣」で、谷崎が発起人の一人となって、芥川『羅生門』出版記念会。赤木、豊島、生馬、瀧田、久米、松岡、和辻、小宮、後藤、加能作次郎、久保勘三郎、江口、佐藤、武羅夫、田村俊子(33)、日夏耿之介(27)、泡鳴、北原鉄雄。
 6月、草人が七百枚に及ぶ自叙伝原稿を持ち込んで斡旋を頼む。あちこちに持ち込んで、ようやく阿蘭陀書房の落合から承諾を得る。同書房は白秋の弟鉄雄の経営。
 精二、『離合』を阿蘭陀書房より刊行。
   28日、芥川を訪問、遊んで帰る。
 7月、「異端者の悲しみ」を『中央公論』に発表、掲載が遅れた理由について長い「はしがき」を付す。「晩春日記」を『黒潮』に、「創作の気分」を『文章倶楽部』に掲載。精二、「母亡き後」を『文章世界』に発表。
 精二、創作集『生と死の愛』を新潮社より刊行。
 同月上旬、佐藤、芥川、江口、赤木ら訪れる。
 8月、後藤、「重罪囚の幼時」を『新日本』に、「中学時代」を『文章倶楽部』に発表して再起を図る。
 9月、戯曲「十五夜物語」を『中央公論』に、「活動写真の現在と将来」を『新小説』に発表。この月から翌年六月まで、『女人神聖』を『婦人公論』に連載。『異端者の悲み』を阿蘭陀書房から刊行。
 同月、佐藤、女優米谷(まいや)香代子と同棲。
 原町で、谷崎、せい子、少年書生(木蘇穀?)三人の生活となる。せい子を英語学校へ通わせるが、半年ほどで辞め、谷崎自ら教えることになる(柏木)。
   30日、東日本に大暴風雨。
 10月、「口の辺の子供らしさ」を『新潮』(芥川龍之介氏の印象)に掲載。同号の久米正雄の小説が原因で、久米失恋す。上山草人『蛇酒』(11月刊)序文執筆。
  『帝国文学』再刊、芥川、江口、久米、豊島が編集委員となり、後藤が自宅を事務局にする。
    2日、草人、春夫と東京近郊の風害視察に出かけ、大森の砂風呂に泊まる。
    30日、芥川を訪ねて遊ぶ(同日芥川の塚本文宛書簡)
 11月、『中央公論』は「有島兄弟谷崎兄弟小特集」で、紝、生馬、武郎、精二の「父となる前」、「ハッサン・カンの妖術」を掲載する。「ラホールより」を『中外新論』に発表。
  精二訳トルストイ『結婚の幸福』、『トルストイ叢書』の一として新潮社より刊行。 12月、精二、『蒼き夜と空』を春陽堂より刊行。
   4日、倉田啓明が谷崎の偽作「誘惑女神」を『東京日日新聞』記者を騙って中外情勢研究社に持ち込み原稿料詐取。
   13日、倉田が、逍遙、谷崎らの偽作を行ったことが東日に報道される。
   17日、倉田逮捕の報道。
 この年、宮森麻太郎の英訳『刺青』が、The Young Tatooer, or Irezumi として、Representative Tales of Japan (散光書院) に収録される。