1912(明治45・大正元年) 27
1月3日、穂積フク急性肺炎で死去。
4日、芝の紅葉館で催された読売新聞社主催の新年宴会に出席。瀧田が迎えに来て一緒に電車で行く。羽織袴縞御召の二枚襲ね一式を借用して、これまでとは違った身なり。電車の中で足立北鴎に会う。会場ではあまり知った顔がなく、中沢臨川が野次を飛ばしている。中村吉蔵(36)と名刺を交換、横山大観(45)鏑木清方(35)長谷川時雨(34)森田草平(32)。らに紹介され、旧知の宮本和吉と盃を交わす。徳田秋聲(42)に挨拶、秋聲、泉鏡花(40)に紹介しようとするが、鏡花酔っていて前後不覚。内田魯庵(45)に挨拶するが、お世辞を言われて不快。鏡花はその後吉原へ繰り込んだらしい。(「青春物語」)。
13日、文藝委員会で「刺青」候補にあがる。
同月、大貫の長女鈴子誕生。
2月、「悪魔」を『中央公論』に発表、原稿料は一枚一円二十銭に上がる。この作は「汚い」として批評家たちの評判よろしからず。ただ鴎外は密かに感心していたという。この後、瀧田と仲違い。「あくび」を1日から17日まで『東京日日新聞』に発表。小野賢一郎に委嘱されたものだが、社会部長冷洋松内則信の推挙か。同月、劇評「人の親を観て」も『東京日日』に掲載。後藤「下町」を『朱欒』に発表。
小山内が売文家だと谷崎の悪口を言っていると木村から聞かされ、「パンの会」の集まりで小山内と衝突する。
9日、一高文藝部に呼ばれ、上野の松韻亭で鴎外、秋田雨雀、後藤とともに談話会。久米正雄、秦豊吉らが一高生としていた(久米「文学会」)。
12日、「鴻の巣」で萱野二十一(郡虎彦、23)と会って乱酔、翌日萱野と連署で鵠沼の和辻宛葉書。
29日−3月3日、『東京日日新聞』で草間俊太郎「刺青」評掲載。
3月、『文章世界』に小宮豊隆(29)の「谷崎潤一郎君の『刺青』」。『早稲田文学』に加能作次郎(28)「二月文壇評『悪魔』」。
10日、雑司ケ谷で開かれた森の会で、上山草人(29)と初対面。
14日、荘太が来る。
15日、荘太と荘八宅へ。歌舞伎で自作を上演するについて田村成義と相談の由。 同月、柳橋柳光亭で行われた津島寿一・君島一郎らの卒業前祝の会に出席。
4月、大毎東日から、京阪見物記を連載する約束で、松内から前金を貰って京都に出掛ける。汽車恐怖症があったので、用心のため、20日、名古屋に一泊し、翌日京都に入ったため、その日行われた島原の花魁道中を見損ねる。午後二時七条停車場に着き、大阪毎日京都支局の春秋氏を訪ね、麸屋町の萬養軒という洋食屋へ連れていかれ、始めて祇園の藝者を見る。下木屋町に投宿。
翌日(22日か)、三本木の「信楽」に滞在する長田幹彦を訪ね、三条萬屋の若主人の金子竹次郎その他とともに花見小路の「菊水」で晩飯。富永町の「長谷仲」へ案内される。松本おこうという老妓が京の地唄を唄い、富次という舞子が「屋島」を舞う。
4月末、都踊りを見物。鳳凰堂を見にいく。27日から5月28日にかけて、「朱雀日記」を「大毎東日」に連載。4月、幹彦「零落」発表。
金子の叔父・岡本橘仙(45)らと遊ぶ。当時藝者を廃業して橘仙の愛人だった磯田多佳女(34)に茶屋「大友」で会う。大友は多佳女母・ともの経営。「朱雀日記」に、多佳女を「老妓」と書いて後で怒られる。
宇治の花屋敷・浮舟園を訪れる。大阪の岸本吉右衛門が来る。
後日、岸本、二年坂の「自樂居」へ谷崎を招き、「刺青」愛読者を集めるという。幹彦、加賀正太郎。数日後、大阪を訪れ、文楽座へ行く。その晩、宿で多佳女と同宿する羽目になる。
大毎の東野より上田敏(39)が会いたいと言っていると聞き、幹彦と岡崎の自宅を訪ねる(新聞記者の小川の案内、と志賀、吉井との鼎談で発言)。後日、敏より幹彦とともに改めて南禅寺境内の瓢亭へ招待される。が、敏との交際は続かず、5月末敏自ら訪ねてきたが不在で、それきりになる。
5月中、大貫晶川は伝染性腸疾患で生死の境をさまよう。
25日、岸本、東京の柴川の招待で大阪文楽座で忠臣蔵。山本鼎(洋画家、31)、森田恒友(洋画家、32)、織田一磨(30)、磯田多佳と一緒。当地の新聞記者をしていた岩野泡鳴(40)に会いたいと言うと正宗得三郎(30)とともに来る。打ち上げ前に出て魚治という縄暖簾で呑む。電車で宝塚へ行き泊まる。大阪にいる幹彦に電話を架けるが電車が池田止まりで来られず。
26日、池田から幹彦来る。
29日、幹彦、正宗、森田、織田と大友に泊まる。
30日、山本鼎、山内金三郎来る。泡鳴を呼び、先斗町の福田屋で藝者をあげて遊ぶ。夜は雑魚寝。
31日、正宗、森田、山本は帰り、幹彦、織田、泡鳴、山内と十時頃出立、四条袂の西洋料理、丸山のアイスクリーム店。真葛が原の月見楼。泡鳴先に帰る(泡鳴「池田日記」)
幹彦と祇園・先斗町などで三ヵ月に及ぶ、「関西流連」をおこなう。
その内、神経症・汽車恐怖症を再発し、次第に京都から動けなくなる。
6月11日、阪神電車で大阪から御影へ行く途中で降り、少しずつ乗り継いで大阪へ帰る。
汽車でなく電車で京都へ戻る。徴兵検査の期限が迫り、京阪で検査を受けようとして、今津へ籍を移して貰って行くことにするが電車に乗る勇気が出ず、最後の日、ようやく今津へ駆けつけると終わっていた。京都へ帰る電車にも乗れず、今橋、中之島辺りに宿泊して十日ほどぶらぶらする。
17日、林方(?)を出て友人と住吉見物に行く。
18日、帰り人力車が後ろへひっくり返って頭を打つ。宿屋に三泊。
22日、人力車で大阪へ帰り病院を訪ねるが土曜日。
24日、診察を受ける。
末、小野法順に名古屋まで付き添ってもらい、ようやく帰京する。
27日、和辻哲郎、高瀬照と結婚。
7月、和辻、帝大を卒業、大学院に在学。
執筆のため霊岸島の旅館・真鶴館に滞在。これは祖父が二番目の娘が結婚する時に持参金がわりにつけてやった旅館で、その後伯母は離縁になり、他家に再嫁したが、当時従兄の江尻雄次が経営していた。
8日、徴兵検査、脂肪過多症で不合格。
15日、大貫宛書簡で、長編執筆中、曽野律の訃報などに触れている。父親からの返書で大貫の病気を知る。
7月20から11月19日まで、「羹」を『東京日日新聞』に連載開始。
30日、天皇死去
8月、土屋計左右、東京高等商業専門学校を卒業、三井銀行に入社。
5日、真鶴館より木屋町仏光寺の宿八千代宛手紙(資料集四)6月24日に書いたもの。
12日、真鶴館の娘で、谷崎の従姉イネと結婚していた澤田卓爾宛手紙で、真鶴館の女将、江尻の妻・お須賀さん(26)との交遊をユーモラスに書いている。須賀は徴兵逃れの方法を色々軍医などに訊いてくれたそうで、先日ご馳走したとある。「羹」は、書いていてつまらないと零している。
9月、雑誌『奇蹟』創刊、同人は精二、広津、葛西善蔵など。
秋、大貫晶川、妻に付き添われて卒業の追試験を受け、東京帝大英文科卒業。
10月26日、上山草人、伊庭孝ら、近代劇協会を旗揚げ、第一回公演『ヘッダ・ガーブレル』、ただし谷崎は赤毛ものが嫌いで、辰野隆から悪評を聞いていたため行かず。
11月、「羹」十三章で中絶。
2日、大貫晶川、急性丹毒症のため急逝。
14日、杉田直樹宛書簡で、晶川追悼会のしらせ。
16日、駒込西教寺で大貫晶川追悼会。
精二(時期不明)、『スバル』に小説を載せたく思い兄に相談すると、吉井勇へ原稿を送るよう言われ、送るが返事がないので平出修法律事務所のスバル編集部を訪れ、出来が悪いのを指摘されて断念。
長田幹彦を介して、瀧田から、何か書けと言って来、「悪魔」後編に着手。築地の下宿屋で缶詰になり、瀧田が待っている中で書いた。木村荘太と三人で葡萄酒を飲む。
1913(大正2)年 28歳
1月、「続悪魔」を『中央公論』に、「恐怖」を『大阪毎日新聞』に発表、短編集『悪魔』を籾山書店から、『羹』を春陽堂から刊行。
この年、晶川訳のツルゲーネフ『煙』、新潮社から刊行。
2−5月、精二、広津、峯岸幸作、今井白楊らと、坪内逍遙宅で行われたバーナード・ショーの講義に出掛け、本棚に『刺青』を見つける。後、精二が弟だと知ってこれを隠す。
3月、本間久雄(28)「谷崎潤一郎論」が『文章世界』に載る。
27日、恒川と万龍の恋に谷崎が援助したと「朝日新聞」の記事。
4月、「少年の記憶」を『大阪毎日新聞』に発表。『早稲田文学』に精二の「谷崎潤一郎氏に呈する書」。『奇蹟』廃刊。
16日、本郷追分三十一、清月館より、和辻宛手紙で、猿之助が新しい劇団を旗揚げするので、和辻の「常盤」を第一回試演用脚本として使用したい旨。谷崎は猿之助から依頼を受けただけで、関係してはいないとある。
この頃、住居が一定しなかったが、5月から半年ほど小田原早川の旅館「かめや」に隠れ住んだ。お須賀との間に関係ができてしまい、江尻と絶交。
5月、「恋を知る頃」を『中央公論』に発表。「劇場の設置に関する希望」を『演藝画報』4月号に発表する。
この夏、辰野、かめやを訪ね、厭世的になって自殺も考えているいる谷崎を見出し、慰める。
6月、帝国劇場で、サルドゥー作『トスカ』(貞奴、幸四郎、伊井蓉峰)を観る(「藝談」)。
7月、両親は日本橋箱崎町四丁目二八番地に転居。
19日、笹沼夫妻の長男・宗一郎誕生。
ドイツ語の勉強を再開(精二宛書簡)。
精二、早大文科を卒業、成績優秀の故を持って大隈総長夫人より賞品を授与さる。発電所を辞す。卒業試験の翌日、偶然瀧田から聞いていた早川の旅館に兄を訪ねると、「M・N(長田幹彦)は通俗作家だ、M・K(久保田万太郎?)は英語もろくに読めない低能だ」と意気軒昂(精二)。
同月精二訳、ポオ『赤き死の仮面』泰平館書店より刊行。島村抱月の推薦で『萬朝報』記者となる。
8月8日、松竹の大谷竹次郎(37)、病気の田村成義(63)から歌舞伎座の経営を任され、歌舞伎座は松竹傘下となる。
15日、和辻翻訳ショー『恋をあさる人』刊行。
16日、郡虎彦、渡欧。
29日、籾山仁三郎宛書簡、来月中央公論掲載の長編に脚本を加えて単行本にしたく、至急お目に掛かりたし、明日午前中偕楽園へお電話下さい。
9月、「熱風に吹かれて」を『中央公論』に発表。お須賀と江尻をモデルにした三角関係もの。
同月、谷崎の一高英法科時代の友人たちが中心になって作った一匡社の同人雑誌『社会及国家』創刊、笹沼も社員となるが、谷崎は社友として、たびたび寄稿。
10月、現代傑作叢書第五編『恋を知る頃』を植竹書院から刊行。同月、早川の旅館を精二が訪ねるか。後藤「ぬか雨」を『帝国文学』に発表。長田幹彦『祇園』刊行。
1日、和辻『ニイチェ研究』内田老鶴圃より刊行。同月和辻、漱石に紹介され、翌月から出入りするようになる。
23日、萬朝報社気付で精二宛書簡、自分はこれまで精二に冷淡だった、これからは男の友人を笹沼以外にあまり持たないことにした、等。江尻事件に懲りたらしい。
11月、「捨てられる迄」脱稿、マゾヒズムもの。後藤「素顔」を『新小説』に発表。
12月、『文章世界』に精二の「潤一郎氏の近業」。
1日、鴎外、谷崎の紹介で書肆尚文館の主人水谷勝展に会う。
この年、パウル・ウェゲナー監督・主演『プラーグの大学生』観て感心(「藝談」)