丸山健二という人

 綿矢りさらに抜かれるまで、最年少23歳で芥川賞をとった丸山健二は、私が大学生のころ(1982-)「朝日新聞」紙上の小さなコラムに「ガキの小説」というのを書いていた。今のアメリカの小説は「ガキの小説」になってしまったというのだ。具体的にどういうものを指しているのか分からないが、若い私は何だか痛快に思って切り抜いておいた。それから数年して、今の文学がダメなのはやっつけ仕事のせいだ、というコラムを書いていた。私は、そうかな? と首をかしげた。

 丸山は、芥川賞以後、すべての文学賞は断っている、もうあんな騒ぎはごめんだからだと言っていた。だが、実際には候補にはなっている。

(「直木賞のすべて」川口則弘より)

 文学賞を辞退するなら、候補の段階で辞退するもので、候補作として名前が出ているのは辞退していないからである。

 そして丸山は次々と長大な作品を世に問うてきたが、だんだんページ面がスカスカの散文詩みたいな体裁になっていき、売れなくなり、大手出版社からも出なくなり、柏艪舎という丸山ファンが経営する出版社から本を出すようになった。そもそも純文学というのは、売れること自体が例外的なので、そうなること自体は別にいい。

 『真文学の夜明け』はその柏艪舎から2017年に出た長編エッセイで、いかに今の日本の文学が堕落しているかを執拗に、例の散文詩みたいな書き方で書いている。しかし、最初のほうでは、海外の文学もダメだと書いていたはずが、あとのほうでは「日本」に限定されていく。これは『自由と禁忌』の江藤淳も、戦後のGHQの検閲のせいで日本文学はダメになったと言いつつ、では海外の作品はいいのか、という疑問にはまるで答えていない本であったのに似ている。江藤も丸山も、実は現代の文学作品なんか碌に読んでいないのだ。

 丸山は「白鯨」「ツァラトストラかく語りき」「徒然草」「平家物語」を優れた文学としてあげつつ、現代のどういう作家や作品がダメなのか、具体的にはまったく言ってくれない。反論されると困るからであろうか。芸術院文化勲章を批判しているから、まずは芸術院会員や文化勲章受章者が標的なんだろうが、村上春樹渡辺淳一をイメージしているみたいな描写もある。だが村上春樹はまだ芸術院会員ではない。

 確かに、現代の文学が、過去の文学に比べて衰弱しているのは確かだが、では大江健三郎はどうなのか、ちょっと聞いてみたくはある。しかし丸山は、文学の基準を一から二十までに分け、自分の作品は15、芥川賞受賞作は2から3,自分が開いている小説塾の塾生の作品は5になるなどと揚言しているから、あまり信用はされないだろう。しかし丸山は私小説が日本独特のダメな形式だと思っているようだが、「徒然草」だって部分的には私小説であろう。しかし、「平家物語」と「徒然草」って、「源氏物語」「枕草子」は入れないということで、要するに女が嫌いなんだろうこの人は。マッチョでミソジニーだなあ。

小谷野敦

それまでの否定

もう7年くらい前になろうか、私が何度めかの、中井英夫の「虚無への供物」はわけが分からないというのを書いた時に、斎藤慎爾が、安藤礼二の『光の曼荼羅』で論じられていると言っていたので、それを読んでみたら、安藤は、これまでの論者は「虚無への供物」をちゃんと読めていなかったと言っている。私は不思議に思ったのだが、世間の人がわあわあ言うから、私はわざわざわけが分からないと言っているのに、安藤のように言ったら、今までの人たちはみな間違いながら騒いでいたことになる。まあ、間違いながらもすごい魅力のある作品だと言いたいんだろうが、それが私にはちっとも感じられないのだから、私には意味不明な言辞となる。

 批評には時どきこういうことがあって、これまでの「××」解釈はみな間違いだった、と大上段に振りかぶられると、でもこれまでもその「××」は名作だとされてきたんで、じゃあみんな間違いながら名作扱いしてきたってことですか、と訊きたくなるのだが、どういうもんであろうか。

昭和の「まじめ」

阪大へ就職してひと月ほどした五月ごろ、言語文化部が教養部から独立した十周年祝賀パーティーというのが開かれて、生協の二階の食堂に集まった。私らみなスーツにネクタイ姿だったが、一人だけ、ネクタイをしていない40代くらいの教員がいた。ヨコタ村上ら30代半ばの連中が、ひそひそと、あれはどうなんだ、などと話していて、ヨコタは50代くらいの教授に文句を言ったりしていた。冗談めかしてではあったが、変なことにこだわるやつだと私は思った。「(彼は)くそまじめだから」と言う人もいたが、男女問わず性的な話をしかけ、女性職員に酔って「あんたとセックスしたい」とか言い、女子学生を研究室に連れ込んでセックスしてしまうこの男は、なるほど「昭和のまじめ男」なのだなと私は今にして思うのである。

ポモ崇拝者誕生の時

2002年の12月に、東大比較文学出身者による「恋愛」シンポジウムが行われた。その時、「ドン・ジュアン」の比較文学などは成立しないと、プリンストン大学に提出した博士論文で主張していたヨコタ村上孝之は、その話をして、「じゃあドン・ガバチョ比較文学ってのもできるんですか」と言った。ポモ的詭弁であって、単に「女たらし」をドン・ジュアンで代表させたことを利用した言葉遊びに過ぎない。

 だが出席していた大澤吉博教授は、そういう正面からの反論はせず、「ドン・ガバチョ比較文学、いいんじゃないですか」などと言っていた。これは午前中の部で、私は客席にいたから何も言えなかった。午後の部では私とヨコタの言い争いになった。

 後日、比較研究室で、東アジアから来た留学生女子が、ヨコタのことを「頭がいい」と言うのを聞いて、ああいうペテンに引っかかる学生や若者がいるからポモが跋扈したんだなと思ったことであった。

小谷野敦

生殖器に電流を

私は英文科を出て比較文学の大学院に行ったが、二年目に英文科で高橋康也先生が開いている大学院のゼミに出席した。阿部公彦河合祥一郎といった人たちがいた。そこで知り合ったT君は、法学部から英文科の大学院へ来た人で、親の命令でいやいや法学部へ行かされたということで、いろいろ話してみると文学に関心が深く、親しくなった。

 その後私はカナダへ行き、大阪へ行きしたが、T君はある大学に勤めてから東大の助教授(駒場)になり、あれこれ話をしたが、東大へ行ったころ、ポスコロをやると言いだしたから、ちょっと嫌な予感がした。私は当時、精神分析とかポモとかポスコロとかカルスタとかいうのをうさんくさく感じ始めていたからだ。

 2009年に、T君の単著が送られてきた。読んでいて私はギョっとした。ハロルド・ピンターを論じた個所で、ピンターがトルコへ行って、アメリカのトルコ政策はひどい、と話していたら、別の人が「いや、背後にソ連があるから仕方ないのですよ」と言った。するとピンターは「いや、私たちは生殖器に電流を流す話をしていたんだよ」と言ってごまかしたというのだが、T君はピンターのこういう発言を礼賛していたのである。これで、ああ、もうこの人はダメだ、と思った。見ているとポモにやられた人になってしまったようで、ご多分に漏れずフロイトにもやられていたらしく、ほぼ絶縁状態になったが、早くまともな学問に立ちかえってほしいものだ。

小谷野敦

 

対談集の夢

 私は若いころ、山崎正和とか江藤淳みたいな有名文化人になりたかったが、結局それは半分くらいしかかなわなかったと言うべきだろう。

 30代半ばで「もてない男」が売れた時は、もっと売れていくつもりでいたが、まあそうもならなかった。まあ当ての外れたのは、大学へ再就職できると思っていたことで、これが一番でかいが、あとはもっとあれこれ「対談」の仕事があって、対談集なんかもできるだろうと思っていたのも、当てが外れた。

 あの当時、西部邁の『論士歴問』(1984)とか上野千鶴子の『接近遭遇』(1988)とかの対談集も出ていて、どちらも面白かった。この二人の著述よりこっちのほうが面白かったし、西部も上野も、その後は派閥を形成したりして狡猾で陰険な人になっていったが、当時はまだ若くて誠実だった。

 まあ私も対談とか鼎談をかき集めれば一冊になるくらいはあるんだろうが、中にはあまり成功しなかったのとか、決裂寸前なのとか、相手が刑事罰を受ける人になったのとかあって、まず無理だろう。しかし有名文化人が対談集を出すというのが、まだ本が売れて、今みたいにネットであくたもくたがものを言わない時代の産物だったのだね。

小谷野敦

音楽には物語がある(47)ウルトラヒーローと冬木透 「中央公論」11月号

 劇映画「シン・ウルトラマン」を観に吉祥寺まで行ったのは、東京都での新型コロナ感染者数が千人を切った日の翌日で、電車に乗るのは二年四カ月ぶりだったが、感染者数はその日にはまた千人を越し、さらに三万、四万まで増えていて、あの一日しかなかったことになる。

 映画自体は「ウルトラマン」総集編的なものだが、冒頭に「ウルトラQ」(一九六六)が入れ込まれていたので、私には、音楽担当の宮内國郎の世界だなあという印象が強かった。私は昔から「ウルトラセブン」(一九六七)「帰ってきたウルトラマン」(一九七一)が好きで、初代マンは好きではなかったが、それが、宮内の音楽の、軍事調なのが、悪くはないが、冬木透のマーラー風のホルンが鳴り響くクラシック風の音楽のほうがずっと好きだったからであるという側面も強いことが分かった。映画の脚本家である庵野秀明(監督は樋口真嗣)は若いころ自主製作映画で「セブン」と「帰マン」の世界を再現したことはあるが、特に今回の選択はそれとは関係ないだろう。

 しかし、「帰ってきたウルトラマン」の主題歌だけはすぎやまこういちで、私は当時小学三年生で、初めてこの名前を耳にしたのではあるまいか。当時はあまり感じなかったが、いま聞くとあまりいい歌ではない。当時まだ作曲家としてはかけだしだったすぎやまは、公開されているNGバージョンも作っているが、こちらもあまり関心しない。一九七九年にすぎやまはカラー版「サイボーグ009」の主題歌を作っているが、これも歌詞に無理やり曲を合わせている感じがしてよくない。すぎやまの才能が開花したのは翌年の「伝説巨神イデオン」からではないだろうか。

 「ウルトラマンA」(一九七二)も主題歌だけは葵まさひこ(一九三七―八四)で、ハニー・ナイツのメンバーだが、あまり好きな曲ではない。「帰マン」や「A」では、冬木の戦闘曲が何よりの楽しみだったとも言える。

 「ウルトラマンタロウ」(一九七三)は、主題歌は阿久悠作詞・川口真(一九三七―二〇二一)作曲で、この主題歌は明るくていいが、劇伴は日暮雅信で、戦闘隊ZATの奇抜な制服や戦闘機などのデザインと相まってコミカルな雰囲気の「タロウ」の世界を強調する結果になっていた。

 しかし、その「タロウ」の第四十九話「歌え!怪獣ビッグマッチ」は、往年の歌謡映画のパロディになっていて、秩父の山中にオルフィと呼ばれる音楽好きの怪獣が住んでいて、時々姿を現しては村人と一緒に音楽を楽しんでいたという。見た目は美とはほど遠い怪獣なのだが、へその脇から丸く束ねた楽譜を取り出すと、ヨハン・シュトラウスの「こうもり」の題名が書かれた楽譜で、村人たちは楽器を持っており、怪獣が指揮をするという珍中の珍である。

 しかるに、怪獣がいるのに退治しないのはZATの怠慢だと言いだした団体があり、副隊長の荒垣(東野孝彦、のちの英心)がなぜか軍服を着こんでその代表(草野大悟)に会いに行く。なお「タロウ」では、隊長は名古屋章なのだが、スケジュールの関係かほとんど登場せず、指揮は副隊長に任せているのだが、この回のあとで東野が怪我をして入院してしまい、そのためアフレコができず、この回の東野は声が違っている。結局草野の正体は宇宙人で、人間が怪獣と仲良くするのを邪魔しようとしたという筋なのだが、この回のシナリオは、ウルトラシリーズで異彩を放っている石堂淑朗で、石堂は東大独文科卒で、大島渚の映画の脚本などに参加していたが、ウルトラシリーズでも、天女など宇宙から女性がやってくる筋を得意としたが、のち保守派の論客としても活躍した。クラシック音楽が好きだったのだろうが、このところ、クラシック好きというと右翼・保守の論客が多いのはどういうわけであろうか。