知らないで驚く

 私が高校生のころ、予備校でもらった二枚折の冊子か何かに、予備校の日本史の教員が、「円座」を「わろうだ」と読むことをこないだまで知らなかったのでショックを受けた、と書いていた。そのあと、学問は難しいものだとでも続いたのだろうか。しかしこの人はせいぜい30歳くらいだったのではないか。

 2005年ころ、日文研の研究会で、井上章一さんが梅蘭芳を知らなかったので、そこにいた人みながえっと驚いたことがある。そりゃ驚きますよ。

 私の場合、25歳くらいまで「スイート・ルーム」を「甘い部屋」だと思っていたとか、若いころにはそんなのはたくさんあった。

作家の取材と研究

吉村昭が、俳人・尾崎放哉の最晩年を描いた『海も暮れきる』を読んだ。放哉は私の好きな俳人だが、実に凄惨な最期だった。ところでこれは77-79年に講談社の『本』に連載されたもので、吉村は放哉歿後50年くらいで、小豆島へ行って関係者の話を聞いて書いている。

 しかし、小説の形で取材の成果を生かすのは作家として当然のことながら、これだと後代の研究者が使えないという問題が起きてしまう。××の息子である△△さんはこう言った、と書いてあれば使えるのだが、そうではないわけだから。まあ、鷹揚な研究者なら、吉村昭の小説にはこう書いてあり、どこまで本当かは分からない、くらい書くだろうが、小説家と研究者の役割分担の難しいところだ。私は根が学者なので、仮に取材したら小説ではなく伝記にするし、万が一小説にしても、注をつけてどういう取材の結果であったか記しておくだろう。

小谷野敦

夏目漱石と厨川白村

 『アステイオン』に張競さんが厨川白村の伝記を連載している。これはミネルヴァ日本評伝選で予告されていたから、それになるのか、よそから出るのかは知らない。昨年の6月ころ、ふと読んでみたら、漱石が主宰する朝日文芸欄に白村が寄稿するので、漱石から白村へ「朝日文芸欄へのご同情」を謝するという手紙が引かれていた。ところが張さんは、これまで白村は朝日文芸欄に寄稿していないから漱石の勘違いだろうと書いている。だがこの手紙の一か月後に寄稿しているから、それについての漱石のお礼だろうとメールしたのだが、張さんの独特の思考で、同情という言葉の意味から言ってそれはない、と言い、半分くらい折れたのだが、両論併記したいと言っていた。途中で紅野謙介の説ですね、と張さんは言ったのだが、それは私は知らない。普通に考えて、今後寄稿するのでお礼した、というだけのことなのだが・・・。

小谷野敦