耕治人と川端康成と私道通行権

 「そうかもしれない」などの「命終三部作」私小説で知られる耕治人は、川端康成に師事していた時期があり、しかし川端の妻の妹・松林から土地をあっせんされたものの、トラブルになり、被害妄想から、川端に土地をだまし取られたと思っていて、川端没後に発表した私小説で川端の名を秘してそれを書いたら、「群像」の月評で平野謙藤枝静男らが話して、この名前が書けないことが問題だ、これは川端だと藤枝が言った。これを読んだ立原正秋は、藤枝に電話して訊くと、あれは平野が言ったことで、平野から、藤枝が言ったことにしてくれと頼まれてそうした、と白状した(平野と藤枝は高校以来の友人)。立原は、卑怯だと言って怒り、それを書いて平野とは絶縁した。

 一方、川端研究者の川嶋至は「誰でも知っていたこと」として、川端が耕をだましたのは事実だと「文學界」に書いた。だが川端家と親しい武田勝彦が「誰も知らなかったこと」として反論し、これは耕が民事訴訟を起こし、私有地の通行権の問題に過ぎないことが明らかになり耕が敗訴していると、訴訟記録を示した。川嶋はこの件で文藝雑誌からパージされ、以後文藝誌には書かなくなり、著書も出さないまま死んだ。

 ところで私道通行権というのは、法学のほうでは割と問題になることで、岡本詔治『私道通行権入門』(信山社、1995)のような著述もあり、「・・・に過ぎない」で済むほどのことではなかったようである。

小谷野敦

津原泰水と私

 私が津原泰水という作家を知り、いきなり電話で話して面倒なことになったのは、ちょうど十年前、2012年9月のことだった。二歳年下の津原は、当時川上未映子とトラブルの関係にあった。これは2010年に川上が新潮新人賞の選考委員に抜擢された時、津原が異を唱え(芥川賞受賞から三年で、早すぎるというのだろうが、これは私にも異論はない。新潮新人賞又吉直樹の時も同じことをした)。そのあと津原の掲示板や2chに津原への誹謗中傷が書き込まれるようになった、というのが発端らしい。津原は川上とは面識があり、「尾崎翠とか読んだら」と助言したが、川上は尾崎翠を知らなかったとかいうのだが、川上の出世作「わたくし率 イン 歯ー、または世界」(2007)が、津原の「黄昏抜歯」(2044)の盗作だというのは、津原が言ったのではなく、どこかから出てきた噂だったが、津原が自身への誹謗中傷の書き込みを川上、または川上の指示を受けた者の仕業だと考えて裁判に持ち込んだのであった。
 私はある日ツイッターで、「若菜」と名乗る女から「津原泰水さんに訴えられています」という話しかけを受けて、へえそうですかと相手をしていた。すると「烏賊娘」を名のる謎のアカウントがいきなり私をバカにし始めたのだが、これは明治大学出身の男で、津原の手下のようなことを当時しており、津原の川上攻撃のブログの管理をしていたらしい。私は面倒に思ったので津原にメールして、こいつを何とかしてくれと頼んだのである。津原はこの「烏賊娘」をえらくかわいがっていて、裁判で私についての悪口をウィキペディアなどに書き込んだのが「若菜」であることを教えてきた。「烏賊娘」は、川上未映子の仲間から悪口を書かれているのにそいつの相手をしている間抜けだと言っているらしい。若菜は、福島県在住の統合失調症患者だという。ただ、私はさほど興味がなかったので適当にあしらっていたら津原が急に、せっかく教えてやっているのに態度が無礼ではないかと言い出したから、そんなこと言われても私はあなたの川上未映子問題に関心があるわけではないし、困ると言ったら、電話で話しましょうと言ってきた。
 そこで遭遇した津原は、かなり面倒くさい人間だった。まず、私が笙野頼子と戦い続けていることについて津原は、小谷野さんってフェミニストだなあ、あんなのただのババアじゃないですか、と言い出した。そして、「若菜」がかつて川上未映子の裏方であったことを言い、自分への誹謗中傷が川上の指令である可能性を示唆した(結局それは関係ないことが分かった)。私が『ヘヴン』は結構ちゃんと筆力を示していたんじゃないかと言うと、それも何かの新人賞の最終選考に残ったものの書き直しじゃないかと思っていると言い、川上は美人だと思われているが「へちゃむくれですよ」と言った。私はこの発言から、津原は川上が好きなんじゃないかと思ったが、作風から見て津原はゲイじゃないかと思うから違うだろう。当時川上は『愛の夢とか』で谷崎賞を受賞していて、選考委員の筒井康隆は難色を示していたが、私もこの短編集での受賞は無理だなあと思っていた。ところが津原は、かつて芥川賞をとって全盛を誇った川上も今は「影も形もないわけです」と言うので、へ? と思った。津原はこのように、そうであってほしいという願望を事実と取り違える傾向があり、統合失調症人格障害の疑いがあると思った。
 「烏賊娘」が匿名であることについて、津原は、匿名で他人を攻撃するのは卑怯ではないか、という私の意見に賛同してはくれた。だが、自分も「烏賊娘」の実名は知らない、と言う。それならつきあうべきじゃないんじゃないかと私は思った。
 あとは、川上未映子がウェブ上で、映画化に際して書かれた尾崎翠の略歴をパクったとかも言われていて、略歴は著作物じゃないからそんな話は成り立たないのに、と思った。なおこの時、「毎日新聞」で文藝時評をやっていた田中和生が、津原の言い分を真に受けて、時評で川上未映子は扱わないことにするなどと宣言していた。それでいてのちに北條裕子の『美しい顔』が単行本になった時は率先して取り上げていたが、実に田中和生もおかしなやつだ。
 津原は例の「烏賊娘」を、文藝賞の授賞式に連れて行ったことがあると言い、一般人をむやみにそんなところへ連れて行っていいのかと思ったが、津原は「烏賊娘」が高橋源一郎のところへ駆けて行って質問していたのを「かわいいんですよー」と言っていたから、やっぱりゲイなのか、と思った。しかし、私の知らない人間を「烏賊娘」などという変な名前で呼び続けることに、私はむしろ非常識さを感じた。のち「烏賊娘」は例のブログで、別の作家の盗作についても書いていたが、片岡直子がやったみたいな片言隻句をとらえて、似ている、盗作だとするもので、これは明らかに統合失調症だった。そしてのち、津原を裏切って逃亡したらしい。
 当時私は一回目の芥川賞候補と二回目の間で、小説を書いても出してくれる出版社がない、とぼやいたら津原は、文藝エージェントを使えばいい、と言い、自分も『ブラバン』という作品をエージェントに頼んだら、バジリコという聞いたこともない出版社を見つけてきてくれたと言っていたが、バジリコなら知っているし、だいいち私が書いているのは純文学で、津原は通俗作家だからエージェントに金を払ってもやっていけるんじゃないかと思った(執筆依頼を受けて編集者と会って内容について相談したこともあるそうだが、私にはそういう経験はない)。津原は高橋源一郎谷崎賞受賞作『さよならクリストファー・ロビン』に対しても批判的で、それはいいのだが「読んでないのまるわかりじゃないですか」と言うのだが、「読んでない」のは『くまのプーさん』らしく、それはないだろうと思った。あるいは高橋について「でも今じゃ文壇の大御所的な存在でしょう?」と私が言うと、津原は「だって明学でしょう?(高橋は明治学院大学教授だった)」と言うのだが、どこの大学の教授であるかは文壇の大御所であるかどうかとは何の関係もないに近いだろう。こうして津原の言うことはいちいちがズレているのだった。
 あとは私が、『文學界』以外の文芸雑誌には載せてもらえない、とぼやいたら津原は口調に笑みを含んで「小谷野さん、私もですよ」と言ったのだが、私は、だってあなたは純文学作家じゃないでしょう、と思った。あとで調べたら『文藝』にエッセイを書いたことがあったらしいし、その後『文藝』に連載していたから、まあ幻想文学という微妙なジャンルということか、とは思った。
 だが、数日してまた電話がかかってきて、妻のことまで「かわいくてしょうがないでしょう」などと言われてうんざりした私は、もう電話はやめてくれ、とメールして、一時は終わりになった。なおこの時、津原はちくま文庫の自著二冊を送ってくれていたが、少し目を通して、私には合わないと感じて全部は読んでいない。私のほうでは、私が書いたものをこの人は楽しまないだろうと思ったから送っていないと記憶する。
 一方、その年の五月に私は清水博子という作家とメールをする機会があり、清水は、笙野頼子から「川上未映子をいじめたんだってな」と言われ絶交された、と嘆いていた。私は笙野に絶交されると何が困るのか分からなかった。翌年、清水は急逝してしまい、自殺ではとも言われたが、よそで聞いた話では、私は行ったことのない文壇バーで、川上未映子に、出自について問い詰め、バーを出入り禁止になったという。ところが津原は清水と親しかったらしく、その文壇バーで清水の追悼式をやろうとしてもめたという。ところが笙野が「川上未映子とは面識がない」というコメントを出していて、津原はそれに対してツイッターで「ボロクソです」と言っていたのだが、「面識がない」がなんで「ボロクソ」になるのか分からないので、私は引用RTしてそのことは指摘しておいたが、これに関しては津原といえども何も言い返してこなかった。(なおこの件に関して、面識がないなら私が言ったことは間違いだと言った人がいたので、下にそれを説明したブログを貼っておく)
 2019年に津原は、百田尚樹の『日本国紀』にインネンをつけて、幻冬舎から出す予定だった文庫が没になり、ハヤカワ文庫から出すという騒動に発展したが、私は、川上未映子を攻撃しても広い支持は得られないと知った津原が、軽薄な左翼勢力の支持を当てにして騒いでいるとしか思えなかった。すでに百田著には大勢の批判があり、その尻馬に乗って騒ぐ行為は、花村萬月が津原をさして言った「美意識」はまったく見られなかった。
 2020年ころだったか、私がツイッターで「津原やすみは、純文学と娯楽小説の区別がついてないんじゃないか」と書いたら、エゴサーチですっ飛んできて、「分からないので教えてください」と言ってきた。これは、純文学と大衆文学には中間的なものもあるし、重層的に決定されるものだからたくさん読んで判断するしかないし、私には『純文学とは何か』という著書もあったのだが、これに対してはかねて「定義が書いてない」という声があり、津原もおそらく「純文学の定義」を求めてうざがらみするだろうと思われたので、腹をくくって「芥川賞受賞作は読んだことがありますか」と訊いたら、「二、三作は」などと答えていたが、「『万延元年のフットボール』は読んだことがありますか」と言えば「それに定義が書いてあるのですか」などとからんでくるから、少し続けたが、むしろ鬱陶しい「信者」が騒ぎ出して当人よりそっちのほうがうざかった。
 津原は筒井康隆を尊敬しているらしいのだが、筒井の『虚航船団』が「純文学書き下ろし特別作品」であることに気づいて、「筒井さんも色々あったんだろうな」などとつぶやいていたが、筒井は当時「純文学批判」をしてほしかったと批判してきた栗本慎一郎に、そういうことは意図していないと答え、自分には文学への憧れがあると言っていたのだが、それも読んでいないのかな、と思ったが面倒なので放っておいた。
 津原の歿後、津原が推薦する内外の小説リストというのがウェブにあったので見てみたら、なるほど幻想文学寄りではあるが、漱石も、鏡花も、中勘助もあるし、驚いたことに『死の棘』まであった。筒井康隆私小説を批判したことがあるので、『死の棘』もダメなのかなといつも思っていたので、津原にとって『死の棘』がいいんだったら近松秋江だっていいんじゃないかと思った。しかし、大江健三郎はなかったし、内外の古典もなかった(源氏物語や、シェイクスピアホメロス)。近代ものが主だった。
 「信者」にはすまないが、私は津原の小説を評価していない。文章が決定的に良くないからで、しかし信者はこの文章が好きであるらしいから、見解の相違と言うほかはない。たとえば先に出た「黄昏抜歯」の最初の部分だけで全然ダメで、「口を握りこんだ」などという日本語は私は日本語文として認めることはできない。
 

https://dioptase7.exblog.jp/15444222/
(「烏賊娘」と栗原裕一郎のやりとり)
https://jun-jun1965.hatenablog.com/entry/2020/07/30/114332
(面識がなくてもできること)

音楽には物語がある(46)小林幹治と「みんなのうた」 「中央公論」10月号

 前回触れた小林幹治という作詞・訳詞家については、ご子息で俳優・演出家の小林顕作さんに連絡をとって、いろいろご教示をえた。小林顕作という人はそれなりに知られた人で、私は毛皮族という劇団の「天国と地獄」という演劇をDVDで観たが、そこではプルートーの役で出演していた。

 さて、小林幹治(敬称略)は、一九三三(昭和八年)七月二十七日、埼玉県深谷の生まれで、私の父と同年である。「かんじ」だが「みきはる」とも読む。没年月日は二〇〇四年五月三十一日で、七十歳だった。学習院大学文学部英文科卒で、北区に今もある野ばら社という出版社の創業者である志村文蔵の息子の志村建世と同じ学科の同期生だったらしい。建世氏は今もご存命でブログをやっておられるので、小林幹治の卒論が何だったかお訊ねしたが、息子さんともども、分からないとのことだった。志村さんご自身の卒論は陶淵明とワーズワスの比較だったという。小林幹治の卒論も恐らくは詩についてのものだったのだろう。卒業後、志村さんはNHKに、小林幹治はカッパ・ブックスの光文社に入る。神吉晴夫カッパ・ブックスを創刊したのは一九五四年だから、ちょうどそのあとあたりになるが、小林は、野ばら社から歌や詩の編纂書を刊行している。『世界歌曲集』志村建世共編(一九五八)、『伊藤左千夫歌集 野菊の墓・語録』編(同) 『若山牧水歌集』布施益子共編(一九五九)『青空歌集』林文夫共編(一九六一)がある。野ばら社は今でもこういう愛唱歌集などを刊行している。

 さて小林はそのうち、独立して、ネームプレートを作る小林製作所を設立し、友人の志村が「みんなのうた」を担当していたので、一九六二年からその手伝いを始めた。これについては小林自身のノートも見せてもらったが、それを記録と照合すると、

 一九六二年九月 川で歌おう(ラサ・サヤン)インドネシア民謡

  十月―十一月 サモア島の歌 ポリネシア民謡

  十一月 踊ろう楽しいポーレチケ ポーランド民謡 

  十二月-一九六三年一月 駅馬車 アメリカ民謡 

一九六三年三月 春が呼んでるよ(ヤシネック) ポーランド民謡

 四-五月 赤い河の谷間 アメリカ民謡

一九六四年八月 海のマーチ 「コロンビア・大洋の宝」デイヴィッド・T・ショー

 十月 たのしいショティッシュ スウェーデン民謡

 これらは「みんなのうた」のもので、訳詞だというから、英語版から小林が自由に訳したということだろうが、かなり有名な作品も入っている。「駅馬車」「赤い河の谷間」もそうだし、「たのしいショティッシュ」の、ショティッシュフォークダンスの一種のことらしいが、歌詞を聞いてもそれは分からないのに、なぜか聴いていて楽しい歌である。「ララ真っ赤な帽子にリボンがゆれてる」というやつで、これほど有名な作詞をした人なのに、これまでちゃんと調べられていなかったのである。

 ほかに、

一九六三年十二月 みかん畑で  ポーランド民謡

一九六四年六月 こんにちはやまびこさん 

ターナー作曲 「聖者の行進」がこのあとにあるが、これらは「みんなのうた」ではなかったらしく、NHKの番組で何度か使われたようで、九月の「リズムにのって」(弘田三枝子ほか)あたりだろうか。

 十二月から六五年一月が「陽気にうたえば」メキシコ民謡

一九六五年三月 ゆかいな牧場(イーアイ・イーアイ・オー)アメリカ民謡(「いちろ

うさんのまきばで」で始まるもの) 

  四-五月 輪になっておどろう(イレ・アイエ)インドネシア民謡       

 ところが、これっきりで小林は訳詞をやめてしまったらしい。息子さんによると、人気があってあれこれ言ってきたので、怖くなってやめたという。もしかすると、表面に出ることの苦手な人だったのかもしれない。

 

 

 

小説を読まない人

 小宮彰さんの追悼文に、前川裕さんのものがあった。やはり比較の出身で法政大で英語を教えていて、「クリーピー」で作家になった人だが、前川さんによると、小宮さんは小説を読まない人だったらしく、「クリーピー」読んだよ、とだけ前川さんに言ったという。

 研究対象は確かにルソーや安藤昌益や寺田寅彦だったわけだが、安房直子というのもあったのは、児童文学ならいいということか。これで私は「児童文学を読む会」にいたIさんを思い出した。理系で、さる大学の教授になったはずだが、宮澤賢治が大好きで、詩も好きだったが、ある時突然、文学=小説の悪口を言い出したので、この人にとっては小説と「童話・詩」はまったく違うものなのだと知って驚いたことがあった。

 沓掛良彦先生も、詩がやたら好きだが、小説は読まないと、ほとんど憎悪をこめて言っていた。

著書訂正

「里見とん伝」

 間違いというのではないが、里見の正妻まさと愛人お良は、会ったこともないと思っていたら、何かあると相談して里見家のことを決めていたということが分かった(「かまくら春秋」2022年10月号、伊藤玄二郎発言)

小宮彰さんと「左翼」

 私の大学院の先輩に小宮彰(1947-2015)さんという人がいた。フランス科から比較文学に進み、東京女子大で長く教えていた。比較の集まりにも当初はよく姿を見せていたが、七年前に68歳で独身のまま急逝した。一冊だけ「ルソーとディドロ」という単著を死去の数年前に出したがそれ以外に著書はなく、地味な人という印象だったが、最初のころ、学会の懇親会で「食べなきゃ嘘だよ~」などとおどけていたのを覚えている。

 歿後、友人の大嶋仁さんらが編纂した『論文集・寺田寅彦その他』を図書館で取り寄せて読んでいたら、追悼文がいくつかあった。

 小宮さんは、先に急逝した大澤吉博さん、上垣外憲一氏などと三羽烏のように思われていたが、初期の論文に「ルソーと安藤昌益」というのがある。しかし、これはいずれも平等思想の人で、右翼的な東大比較とは合わないんじゃないかという疑念を私は長く抱いていたが、今回その追悼文集を見ていたら、私の後輩の吉田和久の追悼文に、「僕は右翼は嫌いなんだ、左翼だからね」と小宮さんが言ったとあるのを見て、ああやっぱりそうだったかと思った。もっとも書いている吉田は、私の見る限りでは右翼っぽい。

 追悼文をざっと見ていくと、芳賀徹先生の弟子ということをみな書いているが、平川祐弘という名は出てこないし、上垣外の名も出てこない。安藤昌益を発見したのはカナダのハーバート・ノーマンだが、平川は、小宮さん死去より前から、ことあるごとにノーマンを槍玉にあげ、エジプトへ逃げて自殺した共産主義者と罵るようになった。小宮さんは東京女子大の哲学科で林道義を中心とした紛争に巻き込まれ、林の宿敵とされて苦しみ、それで寿命を縮めたとまで書かれているが、平川のノーマン攻撃も寿命を縮めたのではなかろうか。(その割にここで追悼文を書いている人は、西原大輔とか右翼っぽい人が多い気がする)

 けっこう小宮さんも私と同じで、左翼なのに右翼っぽい東大比較で苦労した人だったのではないかと思った。まあそれなら三島憲一のように遠ざかってしまえばいいのだがそれが出来なかったのだろう。

 そういえば2007年の3月だったか、武蔵大学で開かれた比較文学会東京支部例会で小宮さんは安房直子について発表したのだが、途中で朗読しながら軽くすすり泣いたことがあり、小玉晃一という人がそのことを書いていたが、20年くらい前に成城大学だったか、と書いていた。この本からしたら十年前であったが。

小谷野敦