友里千賀子への嫉妬

NHKの「朝の連続テレビ小説」を私が観るようになったのは、小学六年の時の、斎藤こずえの子役が話題になった「鳩子の海」からで、学校で昼食の時に担任の教師がテレビをつけて見せてくれたりした。

 翌年から半年一作が原則となり、大竹しのぶの「水色の時」から始まり、四月から九月までの上半期は東京、下半期は大阪での制作になった。私は「火の国へ」のテーマ音楽が好きだったが、中身は観ていない。

 高校一年になった1978年上半期が「おていちゃん」で、沢村貞子の随筆『私の浅草』がエッセイストクラブ賞を受け、友里千賀子が主役に抜擢されたのだが、今も続く、実在の人物の半生の朝ドラ化路線のはしりだった。

 私は沢村貞子という女優をそれまで知らなかったが、当時『グラフNHK』をとっていたからその様子を見て、妙な嫉妬心を、もっぱら友里千賀子に対して覚えたのだが、当時私は浦和高校に落ちて東京の海城高校へ行くようになっていたから、東京育ちの沢村貞子の『私の浅草』というあたりに何か反応したのかもしれない、とにかく不思議な嫉妬心だった。それも短期間で消えた。

 翌年の大河ドラマ草燃える」では友里千賀子は静御前をやっていたがまん丸な顔がちっとも静御前には見えなかった。

坂さんはどこへ

 私は大学一年の秋から一年半ほど、綾瀬にある城東学院という塾でアルバイトをしていた。東大生が教えるという触れ込みだったが、先輩に坂さんという理系の東大生がいて、北海道の出身で、高校時代校舎の二階から雪の山の上へ飛び降りたなどというバンカラ話をしていた。

 打ち上げの席で、私が文学をやっていると言うと「小谷野さん、いいですよねドストエフスキー、雑誌やりましょう」などと言っていた。

 だが坂さんの本当の関心は写真にあり、大学卒業後写真学校へ通っていたようだが、その後どうなったのやら。

www.itojuku.co.jp 弁護士になっていたようです。

小谷野敦

「浮名ざんげ」騒動

新聞検索をしていたら、1950年2月24日の「読売」に、北條誠が『小説新潮』二月号に載せた小説「浮名ざんげ」が、伊藤和夫(53)という人が昭和3-4年に『日活画報』に連載し、のち映画化された「浮名ざんげ」と同一題名、内容、主題歌も同じというので告訴するとある。

 映画のほうは、「日本映画データベース」で見ると、

1929.10.11 神田日活館/日本館
14巻 白黒


監督 ................  三枝源次郎
脚色 ................  山本嘉次郎
原作 ................  伊藤昭夫
撮影 ................  永塚一栄
 
配役    
三好光太郎(大学生) ................  神田俊一
田代幾太郎(三好の友) ................  南部章三
田代安子(田代の妹) ................  佐久間妙子
芝千代(歌沢師匠) ................  酒井米子
桜川半次幇間 ................  村田宏寿
娘お美津 ................  徳川良子
七蔵(仕事師の頭) ................  谷幹一
野村(安子の婚約者) ................  犬上辰朗

となっている。伊藤昭夫とあるがこれは誤りか。さてそこで北条の小説と『日活画報』の一部を取り寄せてみたが、どうもまったく違うものである。北条のほうは戦後のある会社で、前の社長だった河田が落ちぶれて捨扶持をもらっていて、総会のあとで落語をやるというところへ、河田の愛人だった千代という、今の社長の愛人になっている女がやってきているのを、昔を知る社員が見て義憤に駆られるが、河田は意に介せず「心眼」を演じるという話。映画になったほうは、若者二人に妹と歌沢師匠の芝千代がからむ話である。

 続報がないところを見ると、伊藤なる人が、戦後落ちぶれていたところへ新進作家が同名の小説を発表したのでカッとなったというところか。 

 なお昭和11年(1936)に小唄勝太郎の「浮名ざんげ」という流行歌も出ているらしい。

小谷野敦


ピンとこない英文学の話

 北村紗衣の『批評の教室』に、ブルワー=リットンの『ポール・クリフォード』の「暗い嵐の夜だった」という書き出しが、英文学史上最悪の書き出しとして有名だ、と書いてある。ただ私にはピンと来なかった。

 鴻巣友季子の『謎とき『風と共に去りぬ』』には、アーノルド・ベネットという年長作家が、最近の若い作家は「キャラクター」が描けていない、と言ったのに対して、ヴァージニア・ウルフが評論「ベネット氏とブラウン夫人」という評論で反駁し、そのためにベネットが表舞台から消えてしまったという話が紹介されており、「ベネットも新進の優秀な女性作家を相手にしたのが不運だったということですね」(大意)と書いてある。

 ウルフの評論は『ヴァージニア・ウルフ著作集 7 評論』(みすず書房)に入っているので読んでみた。「ブラウン夫人」というのは、作家はブラウン夫人というキャラクターを描写するのに苦労するという話なのだが、英文学の世界では、キャラクターを描き出すというのが作家の重要な仕事だと考えられているらしく、ディケンズは、ミコーバーなどのキャラクター描写がうまいとされており、ドストエフスキーはそれを模倣してマルメラードフを描いたとか言われるのだが、筋ではなくキャラクターという発想が私にはピンと来ない。

 ウルフは、ベネットを、ゴールズワージーH・G・ウェルズと並べて旧世代の作家として否定し、D・H・ロレンスなどを新時代の作家として称揚するのだが、ベネットに打撃を与えるほどの重要な議論がなされているとは思えない。ピンと来ないのである。これらは、英文学という世界では有名な例なのだろうが、日本で一般読者に紹介するとピンと来ない例であろう。

 

教えられないことを教える大学

大学では、「学問」という「教えられること」を教えるところではあるが、一部、教えられないことも教えている。人文系の学科において、小説の書き方などを教えているところがあるが、小説の書き方は、基礎は教えられるがそれ以上はやはり才能である、ということは、まあたいていの人が分かっているからいいのだが、「批評」というのも、才能がなければ書けないのである。このへんは、教えている方はわりあい分かっているのだが、教わっている方は割合分かっていない。

 北村紗衣の『批評の教室』(ちくま新書)が売れているようだが、これは、大学の学部生向け、特に北村が教える武蔵大学の学部生が、批評もどきを書くための手引きであって、実際にこれを読んでも批評としては面白くない。そういうものを新書として出すべきか、ちょっと私には疑問がある。

 この本にも蓮實重彦の名前が出てくるのだが、私は蓮實の「大江健三郎論」などのテマティック批評は、特別な才能のある人にしか書けない「文藝」だと考えているし、蓮實はまさかこれを学問だと思っているわけじゃなかろうとも思う。しかしだんだんレベルを下げていくと、批評と学問の境界が曖昧になるところというのがある。私は『評論家入門』でその話はしたのだが、大学の文学の教師というのは、そこはタブーででもあるのか、話に乗ってこない。批評家と言われる人も、それは学問なのかそうでないのかという話には、乗ろうとしない。

岡田俊之輔氏に答える

早大准教授・英文学の岡田俊之輔氏(1963年生)が「絶對者を戴く文化、戴かぬ文化――諭吉、カーライル、獨歩、他 『WASEDA RILAS JOURNAL第9號早稻田大學總合人文科學研究センター、2021年10月)で私の『宗教に関心がなければいけないのか』に触れているのを知った。以下のとおり。

無論、エイハブの形而上學的反抗もまた「クリスト敎的良心」の然らしめる所に他ならず、寺田建比古の言ふとほり、「被造界の最後の壁さへも突破して、神の深く祕められた本質へと肉迫しようとする、かくも深く宗敎的衝迫にみちた作品」(三二)、それがこの一大長篇小說の內實である事に疑問の餘地は無い。ところが不思議な事に、小谷野敦は自著『宗敎に關心がなければいけないのか』の第四章「文學と宗敎」に、「私は、ギリシア悲劇や、ジェイン・オースティンバルザック、ゾラ、メルヴィルヘンリー・ジェイムズなど、さしてキリスト敎と關係ない文學は好きなのだが、」と書いてゐる(一〇七)。他については今は問はぬとしても、メルヴィルを「さしてキリスト敎と關係ない」とする少なくともこの一點だけは全く理解に苦しむ。別に「宗敎に關心がなければいけない」とは言はないけれど、一體メルヴィルの何處をどう讀めば、こんな的外れの評言が出て來るのだらう。もしやこの「メルヴィル」とやらは、『モウビー・ディック』や『ピエール』や『クラレル』の作者ハーマン・メルヴィルとは違ふ誰か別の人間なのか。さもなくば『モウビー・ディック』を少年少女向けのリトウルド版か何
かで讀み、專ら手に汗握る鯨捕りの冒險譚として愉しみでもしたか。呵々。

 と言う。まあ確かにその通りなのだが、私はメルヴィルドストエフスキーやジッドのように、キリスト教抜きでは理解できない作家としてではなく『モービィ・ディック』を読んだのである。私の『モウビィ・ディック』の読解は女性嫌悪的なものとしてであり、『八犬伝綺想』に記してある。

 なお岡田氏は、「共和政治」というのが西洋の「天賦人権説」と不可分だとこの論文の冒頭近くで書いているが、そもそも堯舜の「禅譲」というのは、世襲制を否定した共和制の理想を語ったものではないのだろうか。なのになぜ東洋では平然と天皇や皇帝の世襲制をやっていたのか、私はこの点かねて疑問に思っている。

小谷野敦) 

校閲の苦労と友達

私が大学院生だったころ苦労したことの一つが、英文論文やレジュメのネイティブチェックである。あれはどういうわけか世間から、「友達や知人にやってもらえ」という圧力がかかり、カネを出して業者にやってもらうというシステムが当時はなかった。だが私にはそうやすやすとネイティブの友人は見つからなかったし、むしろタダでやってもらうということがとにかくトラブルの種だった。しかし教授たちはどうしていたのだろう。カナダへ行っても苦労は続いた。何しろ寮に住んでいたからネイティブはいたが、専門が違うと、私がスタイナーの『悲劇の死』を援用しても、相手は「悲劇」がいい意味で使われているということが分からなかったりするし、ポンと渡して数日して返ってくるというわけにはいかず、対面でああだこうだとやる結果になった。それが、タダだから双方がイライラする結果になった。今の私だったら、カネは払うから頼むと言うところだが、なんかカネを払わせない雰囲気があった。

 英文チェックの苦労はある時期以降はなくなったが、今度は著書に校閲がつかないと間違いだらけになるということで苦労するようになった。「校閲ガール」とかのおかげで、世間では出版社に校閲部があると思っているが、私が聞いた範囲ではほぼ外注で、出版不況になってからとか、零細出版社ではそれを省くことが出てきて、悲しいことになった。大物作家が大手出版社から出したものでも間違いが多かったという例もあるから、全体に弱体化しているんだろうか。むろんそれだって、著者が時間をかけてじっくりやるとか、誰かに読んでもらうとかすればいいわけで、研究書などではそういうこともあるようだが、それは生活のための著書ではない。校閲を自分のカネで頼んだら儲けはなくなってしまう。