北村紗衣「批評の教室 ――チョウのように読み、ハチのように書く (ちくま新書) アマゾンレビュー

誰でも批評が書けるわけではない
星2つ 、2021/10/14

 174pまで読んだら「初心者向けの本」とあり、私はどう考えても初心者ではないので、読むのが間違いであったと気づいた。佐藤亜紀の『小説のストラテジー』に比べたら驚くほどつまらないが、それではしょうがない。また、特別な才能がない人向けとも書いてあるが、批評というのは特別な才能がなければ書けないもので、佐藤亜紀のように読者が書けるかどうかなど無視して進んだほうがいい本が書ける。
「精読」と言いつつ映画の話が多いが、映画はどう「精読」するのか、もうちょっと実例を含めて説明してほしかった。
 著者自身の作品へのコメントが面白くない。「アンソニークレオパトラ」や「ミッドサマー」についての部分など、「どこがオチ?」とか思ってしまう。渾身の作であるらしい「ごん狐」におけるうなぎの話もさほど面白くない。
 日本の作品が少なすぎる。シェイクスピアと英文学少し、あとは最近の映画ズラーってのは若い読者にはいいのかしれんが。なお「クローディアスの日記」におけるおかしな点は、榊敦子が論文に書いていたので先行研究をあげておくべきだったろう。「リア王」については、シェイクスピア以外の「リア王」はみなハッピーエンドだ、というのを書いておくべきだったろう。「アナと雪の女王」について「フェミニズム映画」と一言で済ますのはいけない。ちゃんと説明しなければ。
 ウィキペディアに代表者はいない(171p)とあるが、日本ではいないが他国ではいる。
いいところは、性欲に触れたところ、性欲が批評に及ぼす影響など。
売れているようで重畳です。 
 なお誰でもボクシングに興味があるわけではないので、題名になっている言葉も私は知らなかった。    

 

「暗夜行路」のヤギ

 私は志賀直哉が苦手なのだが、世間には志賀を私小説作家だと思っている人がいて、これは蓮實重彦のせいなのだが、そこから話を訂正しなければならないのも嫌である。むしろ『暗夜行路』が一番いやで、あれは最初の四分の一だけが私小説なだけである。

 ものすごい裕福な家の長男っぽくて男性中心的なのに、どういうわけか女の志賀好きというのもいるからタチが悪い。

 『暗夜行路』には、時任謙作が飼っているヤギに「ヤイ馬鹿」「馬鹿馬鹿」という場面があって、私はこれが理解できなくて困った。私はヤギを飼ったことはもちろんないが、犬や猫を飼っていたって、いきなり、何もしていない相手に「ヤイ馬鹿」ってことはないだろうし、その口調も分からない。鶴田欣也先生が口まねをしてくれたのでどういう口調か初めて分かったのだが、口調すら分からなかった。愛情表現だともいうのだが私には愛情表現として「馬鹿」というという感覚が分からない。エドウィン・マクレランには分かったのだろうか。

萩尾望都「一度きりの大泉の話」書評「週刊朝日」8月

 一九九〇年前後、小学館の少女漫画誌『プチフラワー』に連載されていた萩尾望都の、少年への義理の父による性的虐待を描いた「残酷な神が支配する」を、私はなぜこのようなものを萩尾が長々と連載しているのだろうと、真意をはかりかねる気持ちで読んでいた。中川右介の『萩尾望都竹宮惠子』(幻冬舎新書)を読んだとき、これが、竹宮の『風と木の詩』への批判なのだということが初めて分かった。     
 萩尾と竹宮は、一九七〇年代はじめ、少女漫画界のニューウェーブの二人組として台頭してきた。竹宮の代表作が、少年愛を描いて衝撃を与えたとされる『風と木の誌』で、萩尾も初期は『トーマの心臓』など少年愛かと思われる題材を描いていたが、その後はSFなどに移行していき、竹宮は京都精華大学マンガ学部の教授から学長を務め、萩尾は朝日賞を受賞するなど成功を収めた。      
 二〇一六年に竹宮が自伝『少年の名はジルベール』を刊行し、漫画は描かないがストーリーは作るプロデューサー的な人物だった増山法恵と萩尾と三人で東京の大泉に暮らしていた時期のことを書いた。それは萩尾が出ていくことで終わったのだが、「大泉サロン」と呼ばれ、世間ではこれは少女漫画版「トキワ荘」であり、ここから少女漫画の「革命」が起きたのだと位置づけられ、朝ドラになると言われ、萩尾と竹宮の再会と対談を望む声が多く寄せられた。           
 だが、萩尾はそれらを固く断り、自ら、竹宮との「絶縁」の真相を語ったのがこの著作である。萩尾は、この事実は固く封印していたものだが、それらの声を封じるため、一度だけ解凍すると言っている。萩尾は、自分は竹宮や増山のように、少年愛には関心はなかったと言い、しかし彼らに合わせる形でか(そうは言っていないが)少年愛風の作品を描いたところが、ある時二人から、竹宮が暖めていた『風と木の詩』の盗作ではないかと問い詰められ、さらに手紙が来て、自分らに近づかないでほしいと言われたという。萩尾は以後、『風と木の詩』を含めて竹宮の作品を一切読まず、竹宮や増山の「
排他的独占領域」に触れないように用心してきたという。      
 萩尾の作品を年代順に読んでいけば誰でも、ある時期から描線が固くなったことに気づく。のびやかで丸っこい竹宮と似た描線が、ぎごちないものになってしまう。それはまったくこの呪縛のためだったのだろうかと驚きを覚える。 
 私の高校生から大学生の時代は、萩尾や竹宮、山岸涼子大島弓子らの「少女漫画家」が神のように崇められ始めた時代で、私は大学一年の学園祭で、萩尾が漫画化したコクトーの「恐るべき子供たち」を劇化して演出したが、これは同性愛者コクトーならではの作品で私にはよく分からなかった。それから今日まで、現代の知識人は少年愛や同性愛が分からなければダメだという同調圧力を私は感じてきた。中川の著書は、竹宮と萩尾が「革命」を起こしたと書いており、これも私には一つの圧力だった。              
 だから当事者のかたわれたる萩尾自身が、そんな革命は竹宮と増山が考えていただけだと言い、少年愛になど関心がなかった、と言うことは、私には長年の呪縛からの解放のように感じられた。   
 しかし萩尾は「残酷な神が支配する」について本書では何も言っていない。やはりあれは少年への大人によるレイプすら美化してしまった竹宮への批判だったのだろう。その点では、竹宮を祭り上げてきた漫画評論家たちが、改めて批判されなければならないだろう。竹宮の自伝出版を発端として、萩尾がこの件を明らかにしてくれたことは、漫画史のみならず、思想史的にすら重要なことだったと、私は感謝の念すら覚えるのである。

小谷野敦
 

 

谷沢永一の大学紀要論

日本近代文学者で評論家の谷沢永一関西大学教授の「アホばか間抜け 大学紀要」は『諸君!』の1980年6月号に載った(「あぶくだま遊戯」所収)。大学紀要がいかにくだらない論文を載せているかという痛罵の論でその後しばらく話題になった。1988年の中沢騒動の時も西部邁が論及していた。谷沢は躁うつ病だったから、これは躁状態で書いたものだ。

しかし谷沢は、左翼嫌いの東大嫌いだったから、実例としてあげたのは、無名学者の真にくだらない紀要論文ではなく、東大教養学部紀要の、藤井貞和とか桑野(百川)敬仁の「現代思想」風「源氏物語」論批判をしたため、「現代思想」批判にはなっても、大学紀要批判としては的を外したものになってしまった。平川祐弘も左翼嫌いではあったが東大びいきだから、谷沢のこれをあまり説得力はないと書いていた。

世間で人気が高いが私は乗れない映画

凱旋門、望郷、用心棒、隠し砦の三悪人ゴッドファーザー仁義なき戦い(その他やくざ美化映画全般)、東京物語(小津映画全般)、理由なき反抗、ジュラシック・パークフォレスト・ガンプマディソン郡の橋、愛人、ポンヌフの恋人バグダッド・カフェ、ファーゴ(コーエン兄弟全般)、西部劇全般、イージー・ライダーラスト・ショーテルマ&ルイーズヴェニスに死す、地獄に堕ちた勇者ども、卒業、ダンス・ウィズ・ウルブズ気狂いピエロ(その他ヌーヴェル・ヴァーグ全般)地下鉄のザジ、僕のおじさん、ラストタンゴ・イン・パリ(ほかベルトルッチ全般)ペーパームーンブルジョワジーの秘かな愉しみ(その他ブニュエルはだいたい)アマルコルド、田園に死す、愛の嵐、ジョーズ惑星ソラリス(その他タルコフスキー羊たちの沈黙幸福の黄色いハンカチ地獄の黙示録蒲田行進曲戦場のメリークリスマスベルリン・天使の詩北野武全般、レザボアドッグス、日の名残りもののけ姫、オール・アバウト・マイ・マザー、アメリカン・ビューティ、あの頃ペニー・レインとブリジット・ジョーンズの日記リリイ・シュシュのすべてアメリあの頃ペニー・レインとパッチギ!ジョゼと虎と魚たち河童のクゥと夏休みラ・ラ・ランドサマーウォーズ

俳優になりたかった

信じられないかもしれないが、私も一瞬だけ、俳優になりたい、と思ったことがある。高校一年のころである。結果的には、人づきあいが無理だろうといったことで霧消していったが、その時ちょっと悩んだことは、「嫌な人間を演じられるか」ということだった。たとえばきわめて男尊女卑的な男を演じるのは嫌だということがあって、もしその男が作品内で悪役として描かれているならまだいいが、肯定されていたら耐えられないと思った。じっさいその当時は「まあ女子は大人になったら家庭に入るわけだし」といったセリフを「中学生日記」の先生役が口にしたりしていた。

 多分そのことは今でも尾を引いていて、たとえばフィクション小説を書くときに、自分では許せない人物というのを描けない。これはかなりまずい。だから殺人事件が起こるような小説は書けないのである。

「遊女」という呼称

某所で、明治初年の芸娼妓解放令で、遊女が娼妓になったという記述を見たが、徳川時代の娼婦を「遊女」と呼ぶのは疑問である。横山百合子の「遊女の終焉へ」(「近世史講義」ちくま新書)も疑問だが、遊女はむしろ中世的な用語で、近世においては公文書では「売女(ばいじょ)」である。