暴力的演劇

 その昔、村上龍が「演劇は暴力的な装置だ」という文章を朝日新聞に書いたことがあった。演劇が好きだった私は、へえ村上龍は演劇が嫌いなんだ、と思った。
 柴幸男の岸田戯曲賞受賞作「わが星」は、戯曲を読んだ時点で、なんだかうるさそうな舞台だなと思った。ずっと時報が流れ続け、ラップ音楽みたいなのが随伴している。選評でも、ソーントン・ワイルダーの「わが町」の翻案で、と言われていたが、内野儀なども、この作品がもたらす感動はワイルダーの作品のものではないかと言っていた。
 それが、DVDになって安価で出ていたので買って観てみたら、案の定うるさくて、感動どころではなかった。劇場でなんか観て(聴いて)いたら、それこそ暴力装置だろうと思った。あまりうるさいので、せりふに耳を傾けることもできず、へえこれで感動するのかねえと思ったくらいである。
 あの、みんな遠慮して言わないだけだが、ラップってのは、うるさい。私がラップが嫌いなのは当然だが、だいたいロック以降の音楽のコンサートというのは、拷問、じゃない轟音に身をゆだねるタイプのものである。から、私は行かないのは当然だが、近頃私が外出するのが嫌なのは、音楽やら何やらがやたらうるさいからで、こないだもパソコンを買いに量販店へ行ったら、すさまじい轟音とラウドスピーカーでの宣伝で、早く外へ出たかった。
 クラシックだって音量は結構あるだろうというかしれないが、ラップというのは、BGMに使ってはいかん。コンビニなどでも流れていると、神経に触る。

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書店で、前川直哉『男の絆』(筑摩書房)を見かけたので立ち読みした。著者は1977年生、東大教育学部から京大人環へ行って博士在籍中。
 全体としては、ゲイ解放運動の本だが、学問的によくない。佐伯順子柳父章の、すでに私が批判しきった「恋愛」に関する説を踏襲している。そのくせ赤川学の本も見ているのだから妙だ。用いる資料に偏りがあって、近代の小説類が多い。
 一番の問題は、セジウィックが『男同士の絆』の冒頭に書いた、ホモソーシャルミソジニーだがホモセクシャルは違うという説を引き継いでしまっていることである。セジウィック自身がこの点については、後のほうでは、ホモセクシャルホモソーシャルの境界は明確ではないとしている。ただ前者は、フェミニズムとゲイ解放運動の「連帯」を示唆しているため、強調されている。その結果前川は、「男の絆」(ホモソーシャル)からは、女とゲイが排除された、としてしまう。だが、ゲイの世界に強いミソジニーがありうることは、今では常識である。このことをあえて無視して議論は進んだ、と見えた。
 そして最後に、日本は同性愛に寛容な国だというのは嘘だという。オバマは勝利演説で、白人も黒人も、ゲイもストレートも、と言ったが、日本でそういう政治家はおらず、石原慎太郎のような差別的な政治家がいるだけだ、テレビなどでゲイは「からかい」の対象として出てくるだけだ、と言う。
 これは間違いである。西洋では同性愛はキリスト教的な罪であり、同性愛者が殺害されることもあり、長い歴史の果てに、オバマがそう言っているだけである。おすぎとピーコや美輪明宏は、からかいの対象ではない。むしろ、日本であると海外であるとを問わず、女性同性愛こそが最下層に置かれている。この二つを切り離して論じることはできない。また仮に米国で石原のような発言をする政治家がいたとしても、それはむしろキリスト教原理主義者たちの大いなる支持を受けうるのである。