ディケンズのホモソーシャル

 ディケンズの『大いなる遺産』の佐々木徹による新訳が角川文庫から出ている。佐々木という人は京大英文科の教授なのだが、54歳でまだ単著がない。『大いなる遺産』なんて翻訳がたくさんあるものを訳していないで著書を出してほしいものだ。その点、広野由美子さんは偉い。
 で、帯には、世界文学の最高傑作とか金字塔とか書いてあるのだが、私にはこの小説がまるでダメである。ディケンズは、『荒涼館』がすばらしく、『オリヴァ―・トウィスト』が通俗小説としてよく、『クリスマス・キャロル』は大甘だが、まあいい。
 しかし、日本でよく読まれている(海外でもあまり変わらないのだが)『二都物語』『デヴィッド・コパフィールド』などは、大して良くない。
 実はそのあとつらつら考えていたら、要するにディケンズホモソーシャルなのが耐えられないのだということに気付いた(というか、思い出した)。ディケンズにおける、男と男の関係が濃密なのである。もちろんそれはセジウィックも指摘しているのだが、別にホモソーシャルホモセクシャルと対立するわけではなくてその境界は曖昧である。『荒涼館』が成功したのは、不美人を主人公に据えたからであろう。ホモソーシャル寄りの男というのは、美人に怨恨を抱いていることが多いのである。その『荒涼館』でさえ、最後に老ジャーンディスの求婚を断ってしまうあたりが、私には不満で、あれはディケンズが老ジャーンディスと同化して、女性嫌悪を発揮したからだと思う。 
 だが世の中には、ホモソーシャル、言い換えれば「男の友情」が好きな奴が大勢いるから、そういう人はだいたい私と趣味があわないのである。 

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『友達がいないということ』の、友達がいない人はなるべく結婚したほうがいい、というのに対して、友達もいないのに結婚できるか、と書いている人がいた。
 それは、できるかどうかはともかく、結婚するほうが易しい。なぜなら「結婚相談所」とか「ネットお見合い」といった場があるからである。それに、友達というのは、一瞬友達だと思ってもそうでなくなってしまうことがあるが、結婚というのは法的結びつきなので、そうそう簡単にはなくならないからである。

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古い本でもう絶版になっている『中庸、ときどきラディカル』の151pに「気に入った主題」と書いてあるが、これは「手に入った主題」である。私は「手に入った」と書いたのだが、校閲者が「手に入った」という表現を知らず、勝手に直してしまったものである。