S大学面接のてんまつ

2002年6月18日、梅雨どきのやや蒸し暑い日に、私は小田急向ヶ丘遊園で降りて、S大学のキャンパスへ行くバスに乗った。専任教員としての採用を前提とした面接に行くためである。

 この話は同大学日本文学科の板坂則子教授からもたらされたもので、私はその前に吉祥寺のルノワールで、板坂氏と、中国文学専攻の女性と、あと年配の男性の三人の教授と面談していた。

 だが私は専門は比較文学であり、板坂氏は近世文学の枠で私を採ろうとしていたので、反対意見もあったらしく、二人を面接することになり、VDという西洋人女性をダミーとして呼ぶことになった。VD氏は別の大学の専任だった。

 しかし面接前に、私を支持する側だった教授が階段から転落して重傷を負うという事件もあり、不穏だった。面接で、にこやかに意地悪なことを質問したのは近代文学の畑有三(故人)で、「最近はね、マンガで卒論を書かせるなどという人もいるんですがどう思いますか」などと訊く。これはそこにいた柘植光彦(故人)という文芸評論家みたいなヘビースモーカーの人に対する当てつけなのである。

 こういう時は変な噂が飛ぶもので、私が以前、論文の抜き刷りを持って挨拶に来た院生に、目の前でその抜き刷りを破り捨てたなどという噂が飛んでいると板坂氏から聞いたが、それは誰か別の人を私と勘違いしたのではないか。

 嫌な感じの疲れを覚えて帰宅し、一寝入りしてからメールを見ると、私は落とされたという板坂氏からのメールが届いていた。結局VD氏が、やめるつもりもなかった大学を辞めて移ってくることになったが、それから十年ほどして、精神を病んで退職してしまったが、これは別に大学を移ったからではなかったらしい。

 私を排斥する中心となったのは、谷崎潤一郎研究のYという教授だったらしいが、もとより谷崎研究では小物である。

 その直後に私は前の妻と別れる決心をして、これも一年くらいごたごたしたが、もしかするとこの面接で採用されていたら別れなかったかもしれない。前の妻は、籍を入れることを頑強に拒んでおり、それが私の両親の不興を買っていたからで、しかもそれは前の妻の父(故人)の意向で、どうも、私が大学に再就職したら入れてもいいと言っていたらしく思われるからだ。

 それから7年ほどして私は板坂氏のサバティカルの代理として一年間非常勤で教えたりしたが、私が落とされて数年後、作家の小林恭二が小説を教えるということでここの教授になった。私は、どういう人かと板坂氏から聞かれたので、若い女性作家に「あんた処女?あんた処女?」と訊いたという噂を伝えたから、決まったと聞いた時には意外な感じがしたものだ。

 その次に、朝日新聞の記者だった小山内という旧知の人物も教授になって、ミュージカルなんか教えている。私は2006年に、朝日の女性記者から、当時ブログに書いたことをもとに、美人について『一冊の本』というPR誌に連載してくれないかと言われ、快諾していた。ところがその三回目くらいで、私は当時朝日新聞の記者だった佐久間文子という、坪内祐三(故人)の妻だった人が美人で、社内には、「職場で色気をふりまかれて困る」と言っている人もいる、と書いたのだが、それはもともとブログにあったものだった。ところがこれが出ると佐久間さんからメールが来て、「色気をふりまかれて困る」と言ったのは誰か、と詰問された。実はそれは小山内なのだが、私に連載を依頼した女性によると、そのことは社内ではみな知っていることだとのことだった。結局佐久間さんは新聞を辞めて在野の評論家になり、小山内は大学教授になったというわけである。

小谷野敦