有馬頼義と二・二六事件

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作家・有馬頼義華族で政治家の有馬頼寧の息子だが、1967年2月25日の「朝日新聞」に「二・二六事件と私」を載せて、同事件は革命ではなく単なる人殺しだと述べた。これに対して河野司が3月5日の同紙で「二・二六事件の意味 有馬頼義氏に反論する」を載せ、「前提に思想があった」などと書いた。河野は、事件首謀者の一人の家族である。

 これは当時、糸魚川浩(利根川裕、1927-(存命)の『宴』という二・二六事件を扱った小説がベストセラーになっており、事件の美化を憂えた有馬が書いたもので、私は有馬に賛同するが、ここから有馬は『二・二六暗殺の目撃者』(読売新聞社、1970)を上梓することになる。有馬は「二・二六事件」と呼ぶのも不快だというので「二・二六暗殺」としたのである。

 実は有馬は、中央公論社の編集者だった澤地久枝(1930- )と愛人関係にあり、それが発覚して澤地は同社を退職し、五味川純平の手伝いをしながら文筆修行をし、1972年2月に『妻たちの二・二六事件』(中央公論社)を書いてデビューしたのである(存命)。私にはこれは「美化」のほうに見えるのだが、その4月に川端康成が自殺し、川端とは「睡眠薬中毒」の仲間だった有馬は、ショックを受けて自殺未遂事件を起こしている。しかしこの経緯を考えると、元恋人の澤地に裏切られたという気持ちもあったのではないか。なお有馬は『早稲田文学』の編集に携わっており、立松和平のデビューを後押しした人であり、立松の私小説的な『蜜月』が映画化された際、老人の作家が、佐藤浩市の演じる青年作家志望者に「君の、なかなかいいよ」と言っているのは有馬ではないかと思う。有馬の『二・二六暗殺の目撃者』は1997年に恒文社から新装版が出ており、これには立松が解説を寄せているが、恒文社を経営していたのは工藤美代子の父の池田恒雄で、思想的にはむしろ右寄りの人であった。

小谷野敦