渡辺一夫は小林秀雄の卒論を読んだか?

 『一冊の本』の鹿島茂の連載が、小林秀雄を追及し続けている。小林の文章は非論理的なので外国語に訳せないと言い、あたかも長い箴言に時おりドスを利かせるようなものだが、箴言といえど論理はあるから、箴言ですらない、と言う。その通りである。
 その後で、渡辺一夫が小林の卒論を見て何か言っている、という話になるのだが、小林の卒論というのは発見されていない。鹿島が根拠としているのは、渡辺のこんな文章だ。(「小林秀雄氏のこと」『現代日本文学全集 小林秀雄集』筑摩書房、1956年月報)

 東大の仏文科の卒業論文をしらべてゐる時、いかに小林君の影響が深いかといふことを毎年沁々と感ずるのを常とした。戦後、卒業論文は、日本文で書きフランス文の要約をつけることになつたが、戦前は、全部フランス文で綴ることになつてゐた。僕は、小林秀雄の日本文は、僕は僕なりに判るつもりだが、小林秀雄式な『月並みならざる』表現をフランス語に直訳された文章は、全く判らなかった。その旨を当時同僚だつた中野好夫氏に訴へると、大きな口を開け、額と覚しき当りに、手を掲げつつ、はゝゝゝゝと氏は笑つた。

 分かりにくい文章だとしつつ、鹿島は、渡辺が小林の仏文による卒論を読んでこう書いているのだ、としている。しかし、そう読めばそう読めるが、そうでなくも読める。鹿島が言うように、小林の卒業は昭和5年で、渡辺が東大助教授になったのは昭和15年である。だとすると探し出して読んだことになるのだが、この文章は、小林の影響を受けた卒論の、戦前のものについて言っているとも読める。おそらく鹿島は「しらべてゐる」という語にひっかかったのだろうが、これは、提出された卒論を読んでいるという意味だろう。中野は昭和十年に助教授になり、1953年に東大を50歳で辞めた。渡辺は62年の定年まで教授を務めたから、この文章を書いた時には中野はもういない。
 私にはどうも、渡辺が小林の卒論を読んだ、という風にはとれないのである。
 鹿島も書いている通り、東大文学部の卒論の管理はいい加減で、私もいっぺん、卒論は持っていきたい人は持っていくように、と言われた気がする。
 なお中野は、保守派の斎藤勇にかわいがられて助教授になったわけで、戦後も続けているから、特に戦争協力的言辞はなかったのだろうが、全然しないということは立場上難しいから、何かあったのだろう。そういう中野研究とか伝記というのは、今のところない(気がする)。
 (小谷野敦