凍雲篩雪

「学問」と「思想」
          
一、私の実家は埼玉県越谷市にあって、七歳の時から住んでいた。今は両親とも死んで空き家だが、私の本などが多量に置いてあるから処分できずにいる。越谷図書館は私が越してきた頃にはなかったが、大学二年生になった時に完成し、以後はよく利用した。その二階に「野口冨士男文庫」が設けられている。野口は戦時中越谷に疎開し、戦後も二年ほど住んでいたからである。埼玉県には、土地が誇る文豪がいない。実家からその図書館へ行き、時には二階で調べものもしたが、当時は野口冨士男に特に興味はなかった。私が野口に関心を持ったのは、『徳田秋聲伝』を読んでからである。
 その野口の息子である平井一麥の『六十一歳の大学生、父野口冨士男の遺した一万枚の日記に挑む』(文春新書、二〇〇八)を読んだら、野口冨士男伝にもなっていて面白かった。だが、平井はこの一万枚という日記をワープロに打ち込んだというが、現在はその一部『越ケ谷日記』が、越谷図書館から刊行されているだけである。
 そこで言及されていた、一九七九年の野口の小説「散るを別れと」を読んでみた。これは同題の短編集(河出書房新社、一九八〇)に入っていて、これは伝記小説を三篇入れたもので、ほかは荷風関連で井上唖々、また小泉節子を扱ったものに対し、表題作は斎藤緑雨を扱っている。ここでは野口自身と思しい人物が、白山の緑雨の墓へ行くところから始まるのだが、はじめは生沼という男と一緒だったのが、原稿を依頼してきた文藝誌の編集者から、大学の同期で、卒論に緑雨を書いたという本間頼子という二十九歳くらいであろう女性を紹介される。主人公はその女性に、河盛好蔵の『回想の本棚』(一九七六)を示して、そこに「緑雨のアフォリズム」という文章がある、と言う。そのあと、本間頼子は、松本清張に「正太夫の舌」という緑雨を扱った伝記短編があるということを野口に教え、野口はそれを知らなかったので慌てるが、ここで普通なら野口自身が、その短編の入った『文豪』(一九七五)を自ら手に入れるところだが、なぜか頼子が、その本を貸すというので、野口がはっとする。そして野口と頼子は二度ほど二人で会って、その本の受け渡しをし、最後は二人で、緑雨の郷里である伊勢の神戸へ旅立つことになるのだが、「彼女と自分とのあいだにはほぼ四十歳という年齢差があることは、私にとって一種の救いであると同時に、冷え冷えとした感触をともなう深い悲しみであった」と終わっている。
 野口は私小説作家だから、これも事実そのものかと思ったが、どうもこの本間頼子が浮いている。これはこしらえものではないかと思い、徳田秋聲研究家の亀井麻美さんに訊いてみたら、ここで最初に出てくる河盛の『回想の本棚』に、清張の「正太夫の舌」は冒頭から紹介されている、それを本間頼子に最初に話しているのに、野口が「正太夫の舌」を知らないというのはおかしいので、これは本間頼子は作りものだろう、という鮮やかな解明をしてくれた。そうなると、野口の小説作りが失敗していることになる。
 だが、作りごとだとしても、九段下にある歴史書を出す出版社の編集者で美人だというこの女性にはモデルがあるのではないか、そう思ったのだが、平井氏によると、架空の人物だという。
二、先ごろ、高齢運転者が起こした事故で若い女性が命を失い、友人らが高齢運転者の免許更新についての制度改革を訴える署名を募っていたので、私も署名した。
 私も十月に、高齢自転車と事故を起こしている。図書館へ行く途中、前を走っている自転車を追い抜こうとして、左側から当たられて、当人が転倒して額をハンドルにぶつけて血を流していたから、救急車を呼んだら警察も来て、事情聴取を受け、書類送検されたらしい。聞いたら相手は九十歳で、右折しようとしていたというが、私はチリチリとベルを鳴らしていたのに全然聴こえなかったようである。ところが警察では、あちらが怪我したからか、私にも落ち度があるという方向へ持って行きたいらしく、「まあ左側通行を守っていなかったわけで」と言うから、「それはおじいさんが真ん中走っていたからですよ。左から追い抜けってんですか」「いや」「追いぬいちゃいけないんですか」「いや」。というわけで、四つ角だったから私が前方不注意だということで調書をとられたが、夕方で暗くなってくるし、私も早く帰りたかったからこれで認めたが、こうやって冤罪は作られるのだなと思ったことであった。しかし、九十歳で耳も聴こえないのに自転車を運転しないでほしい。
 それにしても、自転車で右側を走ってくる(つまり左側を走っている私とそのままだと衝突する)人の多いのには参る。女が多いが、男でもいる。私は、視力の矯正が効かず、運転免許を失効したが、前は持っていたから、自転車でも、曲がる時、また進路を変える時は、体をぐるりとひねるほどにして前後を確認するが、そんな自転車乗りはめったにいない。歩行者でも、歩きスマホなどは論外ながら、普通に歩いていても、周囲に対する注意がむやみと足りない。もう自転車は免許制にして、都市部では歩き方についても講習を設けるべきではないかとすら思う。
三、大学院の後輩だった松居竜五の博士論文『南方熊楠 複眼の学問構想』(慶應義塾大学出版会)が送られてきた。松居の最初の本は修士論文をもとにした『南方熊楠 一切智の夢』(朝日選書)で、これで小泉八雲賞奨励賞をとったから、当時は嫉妬したものだ。当人はこれから二冊書いて三部作にすると言っていたが、文献整理や英文論文の翻訳などで、二十六年かけて二冊目を出したことになる。
 私は民俗学には冷淡なのだが、それは民俗学民俗学者学になっているからだ、と言っている。さて当該書の最初のほうを読んでいくと、「熊楠の学問」「熊楠の思想」という語が出てくるが、いったいこの「思想」と「学問」はどういう関係にあるのか。「思想」という語はやや日本独特のものである。ニーチェは文献学者だったが、それを捨てて「思想」家になり、マルクス剰余価値論などで従来の経済学を批判する「学問」をし、さらに社会主義革命という「思想」を抱いた、というのは分かる。だが時おりこういう「学問」が「思想」だという表現に出くわすが、学問というのは誰にとっても客観的な事実を示すものであって「思想」ではない。『ソシュールの思想』(丸山圭三郎)などの本があるが、ソシュール言語学者であって思想家ではないか、ないしはその「学問」とされるものが学問ではないかのどちらかである。
 そういう「学問」のとらえ方が「西洋近代」であって、それを超えるものが熊楠の「思想」だと言うかもしれない。だがそういう「思想」は、「近代の超克」や西田幾多郎以来、単なる狂信的政治思想ややオカルトに至ってきたというのが明らかになったのがこの半世紀ではなかったかと思う。