凍雲篩雪(85)歴史学者の放言
一、年末から、hulu というところで配信しているトルコの大河ドラマ「オスマン帝国外伝」を延々と観ている。最初は二週間無料の間だけ観るつもりだったのだが、面白いというよりは妙にやめられなくなって有料になってからも観ている。
十六世紀はじめのオスマン帝国(昔はオスマン・トルコといったものだが)のスレイマン大帝の治世を、後宮(ハーレム)での女の争いを中心に描いたもので、主人公はおそらく、スレイマンの即位前後にクリミア半島から連れてこられたルテニア人のアレクサンドラで、皇帝に寵愛されてヒュッレムの名をもらう。だが皇帝にはムスタファという第一皇子を産んだマヒデブランという妃がいて、ことごとにヒュッレムと争いを起こす。ほかに母后とその侍女、スレイマンの寵臣で小姓頭、三十歳ほどで大宰相に抜擢され、スレイマンの妹のハティジェとの悲恋も乗り越えて結婚するイブラヒム、女官長のニギャール、宦官長のスンビュル、宮廷史家のマトラークチュなどのレギュラーがいる。
このヒュッレム、美人といえば美人なのだが、とうてい善人とは言いがたく、側女の中で親友だったマリアが皇帝に召されたと知るや彼女に暴力を振るい、のち謝罪としてクロテンの襟巻を渡すがそれには毒が塗ってあり顔が焼けただれるというすごい展開で、日本なら史実の主人公が悪人でもそのへんは隠蔽したり脚色したりするのだが、主役でこれだけ性格悪く描くというのはトルコの不思議さかもしれない。
私は、女官長のニギャールを演じるフィリス・アフメトという女優が好きで、ニギャールは善人で、ヒュッレムにいろいろ忠告したりするため好きで観ていたのだが、そのニギャールも最近ではヒュッレム派と思われてマヒデブランの侍女に頭から袋をかぶせられて、ヒュッレム方につくと殺すとか言われたり、意趣返しにその侍女を襲撃したりして実に恐ろしいドラマである。このヒュッレムは、それまで奴隷身分だった妃の地位を向上させた改革者で、西欧ではロクサリーナの名で知られているらしい。
しかし後宮内の話に終始するのではなく、ハンガリーへ侵攻してヨラシュ二世と戦ったり、ヴェネチア大使が出てきたりして、歴史の勉強にもなるので観ている。
どうもこういう歴史大河ドラマというのは、日本のものをまねして諸外国でも始めたらしい。日本では小説・ドラマともに、目ぼしいネタがみな使い尽くされているから、まだ堀り尽くされていない、知られていない外国の歴史がドラマで観られるのはいいことである。
簑輪諒という新人作家の『うつろ屋軍師』(祥伝社)というデビュー作を読んだ。織田信長の宿老だった丹羽長秀が、羽柴秀吉政権下で勢力を失い、その子長重が小大名に落とされつつじわじわとはいあがり徳川時代にも丹羽家が生き延びたという話を、丹羽家の家老・江口正吉を主人公として描いたもので、面白くはあったが、結局今後の歴史小説は、このようにそれまでの歴史小説に描かれなかったマイナーな人物を探し出して描くしかないのか、と困った気分になった。これなら、将来的には史実を放り込めばAIにも歴史小説が書けるということになってしまうだろう。しかし簑輪の『くせものの譜』(学研)という、御宿勘兵衛を描いた連作を読んだら、なんでこれで直木賞を受賞しないのかというほどの傑作で、この作家なら歴史小説の未来を切り開いてくれるのではないかとすら思ったのであった。
ところで私はかねて、大河ドラマでも歴史小説でも学習歴史まんがでも、歴史を学ぶとば口になればいいと言っているが、歴史学者や高学歴層には、そういう考え方をバカにする傾向がある。百田尚樹の『日本国紀』をめぐるさして意味のない論争が起きて、日本史学者の呉座勇一が、百田に影響を与えたとされた井沢元彦の「逆説の日本史』に触れて、「作家のヨタ話」などと言いだしてしまったのもその一環だろう(言論プラットフォーム・アゴラ 『日本国紀』問題を考える―歴史学と歴史小説のあいだ① 一月十七日)。しかし「作家」といっても、司馬遼太郎や吉村昭のように、史料をよく読みこんでいる作家はいるわけだし、かつて三田村鳶魚が『大衆文芸評判記』(一九三三)で時代作家の考証のずさんさを論難して以後、吉川英治や海音寺潮五郎、特に後者は、史料をよく読み歴史の勉強をするようになって、海音寺は大岡昇平に難癖をつけられて見事に論駁したこともあるので、そう「クソ味噌一緒」にされては困る。第一、井沢の原点は先ごろ没した梅原猛の『水底の歌』で、呉座はその梅原を初代所長・顧問としていた国際日本文化研究センターの助教である。梅原に関しては、せめて『水底の歌』の間違いだけは認めてほしかったと私は思っている。梅原は歴史学からも国文学からも批判されつつ、一般読者やマスコミに人気があり、文化勲章まで受章した。学士院や藝術院に入れられなかったのは、これらアカデミーの見識だろう(ただ学士院の選び方がいいかどうか、私は疑問である)。
呉座は井沢が歴史学者を批判した文章に反論している。井沢は、山本勘助の実在について歴史学者は否定的だったが、史料が出るとてのひらを返したように実在説になると論難しており、史料が出たら修正するのは当たり前だと呉座は言っている。これは呉座が正しいが、別に学者であっても筋の通らない議論をする者はいる。
「作家」といえば、世間では売れる作家のことばかり考えるようだ。学術論文などは当然原稿料は出ないし、硬い学術書も売れるはずはなく、世間は作家のヨタ話ばかり読む、とひがむが、在野の作家の側では、学者は大学から給料をもらって売れる売れない関係なくやれるからいいよな、となる。しかし世間には売れない作家もいるし、定職につけずにいる学者もいる。以前、鈴木貞美が酒の席で社会学者・筒井清忠を内容には触れずに論難していたら、脇にいた女子大の図書館に勤める書誌学者が「作家だからいい加減なこと書いてるんじゃないの」と言い、鈴木が「康隆じゃなくて清忠」と訂正したことがある(実名を出したのは変名にすると誰だか詮索されるだけだからである)。こういう放言はやや迂闊な学者の世界にはあることであるが、呉座にはくれぐれもそういう十把一絡げな物言いはせず、是々非々で学問をやっていってほしい。
二、今回の芥川賞は、候補作に奇妙なものが多かった。受賞した上田岳弘や候補の高山羽根子は「SF」のようだし、鴻池瑠衣も未来的な現代を描いているようだった。しかしSFの手法を純文学に用いるというのは、筒井康隆が成功したくらいで、そのほかはただわけの分からないものが多い。ただしもっぱらSF好きの評論家などは高山などを評価しているが、世間では賛否両論である。もし今後の純文学界がこの方向へ行くのだとしたら、私はついていけないが、同時に純文学は本当に「現代音楽」の道をたどることになるのではないか、という気もする。