「だれ」と「たれ」

 昔「中学生日記」の冒頭で、女の教師が黒板に「誰れですか」と書いたら、生徒が「先生、それじゃ『だれれ』じゃないですかあ」と言ったから、教師は「誰がために鐘は鳴る」と書いた。すると生徒は「先生、それじゃ「たれ」じゃないですかあ」と言い、教師が何か言うと、「先生、そういうの屁理屈って言うんじゃないですかあ」と言って生徒らが爆笑するというシーンがあった。当時私は大学生だったんじゃないかと思うが、この中学生らにむかむか腹が立ったものだ。
 さて『江藤淳大江健三郎』のレビューで、
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 けっこう文学的素養のある人だと思っていたが、
「たれであるか」を誤記だと思っている。
そういえば、大江は生きているから「評伝」だが、江藤は死んでいるから「伝記」だという、不思議な独自定義もあったな。

誰がために 成田賢ヒストリー

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