昨年七月に『週刊朝日』に書いたもの。
「盲目的な恋と友情」辻村深月
十数年前に、藤堂志津子の小説を読んで、こうも女の真実をえぐる直木賞作家がいるのかと感心して、しばらく藤堂作品を読んできたが、辻村深月の直木賞受賞作『鍵のない夢を見る』を読んで、久しぶりに似た感じをもった。昔は純文学が人間の真実をえぐったものだが、この二十年ほど、直木賞系作家のほうが鋭いという現象が起きている。
これはその辻村の書き下ろし長編で、「恋」と「友情」の二部から成っている。東京郊外にある私立大学のアマチュアオーケストラが、プロの指揮者を外から迎えるが、たいてい指揮者は女子学生を恋人にする。本作では茂実星近という漫画のような名前の、二十代後半の指揮者が登場する。前半「恋」の視点人物である、元タカラジェンヌを母にもつ一瀬蘭花は、この茂実と恋仲になり、それが破綻するまでが描かれる。
ここで茂実は、師匠である堤の夫人と関係をもっており、そのことに蘭花が気づいて煩悶するという流れがある。堤夫人は四十代で、二十ほど年上なのだが、それを蘭花はおぞましいと感じる。私などには隠微に感じられるのだが、そのへんの意識のずれも面白い。
前半はかくのごとく、あたかもレディコミのように描かれていて安っぽくさえ感じられるのだが、それは後半への伏線であり、こういう伏線の張り方はいい。私はだいたい推理小説を読んでいても、「このあとこうなるんだろうな」という見当がつかない。これは現実における、予断はいけないという倫理を、小説を読む時にも持ち込んでいるからなのだが、だからうまく張られた伏線が生きており、二度読みさせる小説というのは好きである。これもそんな小説だが、ネタバレしてはいけないので、筋はあまり紹介できない。
読んでいて、あるぼんやりした奇妙さが感じられるのが、彼らの周囲の女子学生たちで、描写がはっきりしない。その理由が、後半「友情」で明らかになる。私は、岸田国士の小説を昼ドラにした「暖流」を思いだした。
ここで描かれているのは、存外小さな世界である。ところが人は、他人から見たら小さな世界において、自分がどういう位置に置かれているかということを気にしてしまうということがあって、作者はそういう自意識の、異常ともいえる空回りを描いている。「その程度のことを気にするの?」と思う人もいるだろうが、「いや、気にする」と思う人もいる。そして、後者がそばにいたら、怖い。この小説の後半の視点人物・留利絵は、私の見た限りでは、人格障害すれすれのところにいる。そして人格障害はなかなか気づかれない。
それは恋の三角関係ではないし、あるいは同性愛と言ってすむものでもなく、他人と自分との関係を正常にとらえることができなくなってしまった精神だ。三十代前半の作者は、ずいぶん恐ろしいものを見ていると思う。はたして現代においてこういう人物が増えているかどうかは分からないが、私が恐ろしいと思うのは、留利絵というもう一人の主人公の行動を理解してしまう読者もいるだろうということである。
ある人の言っていることが、どうも妙だと感じることがある。なぜその程度のことを気にするのか、とか、それならなぜ早く言わないのか、といったことだが、そんな時、その人は精神を病んでいる。そしてもしかすると、留利絵の発想を「分かる」読者というのは、本当に危ない人で、かつそういう人は一定数いるだろうと思わせる、そこが怖い。
娯楽小説作家は、あまりに真実を突きすぎると読者が離れてしまうから、寸止めのような形で、一般読者に、自分には刺さっていないと思わせつつ書かなければならず、辻村はなかなか危ない橋を渡っていると思うが、それだけに私は応援したい。もっとぐさぐさ刺さるものを書いてほしいくらいだが。