アマゾンの乃南アサ『凍える牙』のレビューで、安原顕の解説がひどいと書いたので、私が安原を嫌っていると思っている人がいるようだが、別にそうでもない。安原はひどい文章を書くことはあったし、変人ではあった。「スーパーエディター」とか名乗るのも傍ら痛いものはあったが、別に恨みとか、これは許せねえ、というのはない。
特に村上春樹の生原稿を売った事件は変で、あれは2006年に村上自身が『文藝春秋』に書いて、毎日新聞が鈴木英生の後追い記事を書いたのみ、ほかの新聞は報道していない。
もともと、生原稿に価値があるという考え方は、なかった。1965年ころに日本近代文学館が出来て、生原稿などを集め始めるころに確立したのだが、谷崎の『少将滋幹の母』の生原稿は、担当編集者が貰って喜んでおり、「大物」のなら価値があるという考え方だった。もとより今でもそうで、仮に私の生原稿があるとして、値段はつかないだろう。まあもっと格上で、日野啓三の生原稿ですら、売れるかどうか分からない。
村上の件は、それ以前に弘兼憲史の漫画原稿が流出して裁判になったことから表面化したものだが、マンガ原稿の場合は「絵」であるから、裁判所が価値ありとしたものだ。「書」であればともかく、村上の場合は翻訳の原稿で、既に発表されたものなのだから、村上春樹でなかったら価値ゼロと判定されてもおかしくないのである。したがって村上は、俺は谷崎、川端と並ぶ大作家だから生原稿に価値があるのは当然である、と言っているに等しいのである。だいたい文学にとって、生原稿などというのはフェティッシュである。作家たるものが、文学の抜け殻である生原稿などに価値があると言いだすのは、どうかしている。
本当はこの件は、ちゃんと法学者などによって議論されるべきだったのだ。
(小谷野敦)