昨日、図書館で「東京新聞」を見たら一面にドナルド・キーンが出ていて、『源氏物語』の翻訳の話をしていた。アーサー・ウェイリーの英訳がすばらしいと言い、谷崎の現代語訳よりいいと『文藝』の座談会で発言して、谷崎に謝りの手紙を出したら、谷崎から、いえ気にしていませんと返事が来た、という(多分キーンの勘違い)。しかしサイデンスティッカーの訳のことは一言も言わないので、やはりキーンとサイデンは仲が悪かったのだなと思った。
 ところで、エドウィン・マクレランが英訳した『暗夜行路』は、どう考えたって原作以上である。私は志賀直哉が嫌いで、『暗夜行路』も嫌いなのだが、マクレランの英訳で読むと名作のように思えるから不思議である。はじめの方は、謙作の芸者遊びが延々と描かれて、退屈なのだが、志賀はここを何度も書き直している。そこで、芸者が争いを始める。そこに「謙作は目薬をさした」という短い一文がある。日本語原文だとそのまま通り過ぎるのだが、英訳だと、謙作が緊張して目薬を差したということが、不思議にも分かるのである。だから私は読んでいてそれに気づき、大笑いしてしまった。なんで英訳しただけで、何もつけ加えていないのに、分かるようになるのか。
小谷野敦)