1964年に佐藤春夫は、ラジオの録音中に急死したが、遺作となったのが、『文芸』六月号に載った120枚の「玉を抱いて泣く」120枚である。五月七日発売とすると、出た時に佐藤はもう死んでいた。なおこの『文藝』には、富島健夫の「雌雄の光景」320枚が載っている。この当時は『文芸』であって、のち『文藝』に戻る。編集長は竹田博だが、のち編集長となる寺田博も編集スタッフの中にいる。寺田が『文藝』に戻す。
さて、志賀直哉が滝井孝作を訪ねると、滝井は佐藤について話をする。「玉を抱いて泣く」は、天才少女ピアニスト和田五九子の話で、大阪朝日新聞の記者だった飛騨毅が三十年あまり前のことを語ったというのだ。飛騨は飛騨の郡上八幡の出身で、名和昆虫研究所や徳川林政史研究所へ出入りしていて、徳川義親を知り、そこから五九子の話を聞き、内海新吉というのが五九子の才能を伸ばしたいと思っているが五九子の家では五九子の才能への理解がたりず、父と母が争っているという。
そこで飛騨が父の彦九郎に会って話を聞くと、五九子の母は実の母ではないと言う。管野スガと並び称せられた女が彦太郎の愛人で、五九子を産んですぐ死んだというのだ。だが飛騨は、赤旗事件に連座した神川マツというのが、五九子の母ではないかと思う。あと林政研究所の轟森男というのも出てくる。
さて、滝井は飛騨の出身なので、これを読んで、ピアニストになってはいるがモギレフスキーとか出てくるし諏訪根自子だろうと思って志賀に話すと、志賀は里見トンに話した。里見は昔「荊棘の冠」で根自子を五九子として書いているから、変な話だと思い、佐藤が生きていたら訊いてみるのだが、という葉書を志賀によこし、志賀はそれを同封して滝井に送り、滝井が里見の許可をえて、随筆集『翁草』に載せたのだ。
実名変名が入り混じっているが、内海は鈴木鎮一、轟は所三男であろう。神川マツは松葉子ともいい、
http://d.hatena.ne.jp/jyunku/20110309/p2
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/K/kamikawa_ma.html
こんな人で、根自子が生まれたのは1920年だから生んでいてもおかしくはないが、それでマツが死んだということもない。
小説としてははなはだ中途半端なものだが、根自子の実の母が神川マツと示唆したあたりが斬新であるか。
(小谷野敦)