『現代虚人列伝』という本があって、これは70年代に『現代の眼』に連載されたもの。その都度執筆者は違う。まあ左翼雑誌だから、保守派文化人を批判するもので、朝比奈宗源なんてのが筆頭に来る。江藤淳もいて、これは岡庭昇が書いているのだが、なぜかいきなり「学士院賞の江藤」と来る。江藤が学士院賞? と思って読んでいくと、三回くらい「学士院賞」が出た。藝術院賞の間違い。あはは、岡庭って学士院賞と藝術院賞の区別もつかず、しかも雑誌連載から単行本になるまで誰も気づかなかったんだなあ、と思ったことであった。江藤が学士院賞なんかとるわけがない。 

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こないだから高見順日記を読んでいるのだが、面白くてやがて苦しい。高見の小説というのはことごとくつまらない。日記と『死の淵より』だけが面白い。癌で闘病中、よそに作った子供(高見恭子)がその母つまり高見の愛人と一緒に来て、高見正妻と恭子が寝ているのを見て、罰が当たったのだ、と思う。翌日妻とは大喧嘩になる。
 『死の淵より』は、死んだあとで出たのかと思っていたがそうじゃなくて、まだ生きているうちに出て野間文芸賞を受賞。同時受賞は中山義秀『咲庵』という、明智光秀を描いたもので、私は読んだが今読む人はいないだろうなあ。
 高見日記には、新聞や雑誌からの切り抜きがたくさん貼りつけてあるが、これは著作権があるから、勁草書房は出すのに手間どったろう、と思う。それとも「影」だからいいのか?
 『文學界』の匿名時評「コントロールタワー」が貼りつけてあり、癌闘病詩集で受賞というのを揶揄していて、高見が、この筆者を癌にしてやりたいと怒っている。曰く、

 高見先生の『死の淵より』が、癌の病床で書かれたものではなくて、つまりそういう私小説的な説明がなくて、ポンとそこに放り出されたものだったら、それでも受賞ということになったでしょうか。野暮をいうなって? だって作品というものは、独立した価値によって判断されねばならぬと、批評家の先生たちはいつもおっしゃっているじゃありませんか。

 俺はそんなこと言ってないぞ。作品が、ポンとそこに置かれるなんてことはありえないのだ。とまあ、もう生きていないだろう47年前の匿名子に反論してみるのだ。いや、それとも丸谷才一先生かな?