貧窮問答歌の論

 『万葉集』巻の五は、漢籍の影響の濃い一巻で、そこに山上憶良の「貧窮問答歌」が収められている。憶良は全体に漢籍の素養が強く、これは遣唐使として唐へ渡り、多くの漢籍を見たからとされているが、戦前、土屋文明は、憶良は渡来人ではないかという説を唱えた。
 『万葉集』は、日本最古の和歌集として、漢籍からの影響は大きく、六朝漢詩、白楽天陶淵明などの影響は、長く研究対象とされてきた。これは比較文学だが、日本比較文学会ではあまり古代は扱わず、和漢比較文学会というのがある。中西進が『万葉集』の比較文学研究では知られ、『万葉集比較文学研究』で読売文学賞を受賞している。中西は東大出身だが、成城大、筑波大から国際日本文化研究センター大阪女子大学長その他実にあちこち転々としている。が、国文学界では異端で、比較文学会の会長だったこともある。
 対して、国文学界における『万葉集』の比較文学的研究は、小島憲之大阪市立大教授(1913−98)の『上代日本文学と中国文学』(1965)があり、これは学士院賞を受けている。小島は京大出身だが京大教授ではない。
 「貧窮問答歌」は、多くの漢籍の影響下に成り立っており、陶淵明や、『藝文類聚』の「貧家賦」の影響があるとされてきた。ここまでは、小島、西郷信綱(1916−2008、横浜市大、法政大)らの認めるところである。
 しかるに、敦煌の発掘によって、王梵志の貧苦を歌った漢詩が、「貧窮問答歌」の元ネタではないかとされたのだが、これを最初に提唱したのは、菊池英夫(1930−)という東洋史学者・中央大教授で、1983年5月『國文學 解釈と教材の研究』に書いてある。どうもこの説は、日本史学者には受け入れられたらしく、1988年の吉田孝・青山学院大教授の『大系・日本の歴史3』(小学館)でも書かれているし、92年の『100問100答 日本の歴史2 原始・古代』(河出書房新社)でも西野悠紀子(古代史)がこの説を認めている。
 しかし、国文学者はおおむね、憶良の独自性を強調する傾向があって、芳賀紀雄(1946- 筑波大名誉教授)の以下の文章などそれを如実に表している。
http://kotobank.jp/word/%E5%B1%B1%E4%B8%8A%E6%86%B6%E8%89%AF
 そして芳賀の博士論文『萬葉集における中國文學の受容』(2003)には、王梵志について、憶良への影響が取り沙汰されているが、「敦煌にのみ残った作品に、ことさら憶良が目を向けたその要因は何であったかとなると、単なる表現の類似をもってしては解けない疑問が残ろう」(260-261)とある。
 日本語としておかしく意味がとりづらいが、要するに、表現が似ているだけで、憶良がそれを見た証拠はないではないか、認めないという意味である。
 しかし国文学者でも、山口博(1932- 富山大名誉教授)『『万葉集の誕生と大陸文化』(角川選書、1996)は、菊池の説は正しいだろうと書いているし、辰巳正明(1945- 國學院大教授)『山上億良』日本歌人選(笠間書院、2011)でも、ほぼ定説として書かれている。 
 したがって漸次認められつつあると言うべきだろう。
 まあ国文学界というのはかな〜り陰湿なところで、中西進がなんで異端かというと比較文学をやったからという説もある。この王梵志にしても、東洋史のやつが言い出すなんて、とんでもないことで、もうそれだけで認めるわけにはいかない。したがって批判論文も書かず無視し、院生には、「触れてはいけない」と口頭で伝え、学会で広めるのである。認めないものは批判してもいけない、無視しなければいけない、というのが、学界のオキテなのである。異端を批判すると、その人まで異端にされてしまうのである。 
 学問は独学でもできるが、大学院へ行かないと、この陰湿な構造は学べないのである。お〜こわ。