ギャグとストーリー

 アニメ「サザエさん」はもう41年やっているから、原作以上の長きにわたることになるが、もちろん原作のネタなど使い尽くし、同じネタを何度も使いまわしてやっているのだろう。しかし思うに、一回読みきりというのは、漫画でもテレビでも、さぞ大変だろうと思う。ストーリーものなら、最初に作っておけばいいわけだし、『バビル二世』なんか、ただひたすらヨミとの戦いが続くだけで、途中で失笑してしまうくらい。あるいは読み切りでも、「水戸黄門」とか「タイムボカン」シリーズのようにパターンが決まっているといい。「ドラえもん」ですら、機械を出すという根幹があるからまだいい方で、「もーれつア太郎」とか「オバQ」とか、ただキャラが決まっているだけというのは、毎回新規に考えるのだからさぞ大変だろう。ギャグ漫画の作者が頭を壊してしまうことが多いのもむべなるかなである。
 しかし「ミクロイドS」のような戦闘系のアニメですらその主題歌に「ずっこけ、失敗、何のその」とあるのを見れば、「のらくろ」以来とも言うべき、失敗ばかりしているのになぜか愛されてかつ成功、出世していくというこの……。

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アニメ「フランダースの犬」はフラマン語の歌詞を入れてがんばったのに、英語でごまかしてスウェーデン語を使わなかった「ニルスのふしぎな旅」はだらしないと思う。
しかし最近つくづく、英文学というのはおかしなものだと思う。明治以後、日本人が一番勉強した外国語はもちろん英語だが、文学に関しては、文学者たちが影響を受けたのはフランスとロシヤの文学、それにストリンドベルィやダヌンツィオで、英文学に影響を受けたなんてのは、漱石菊池寛がいるくらいである。
 それにまた、シェイクスピアを除くと英文学ってのは妙なもので、20世紀初め頃に正統的なものとされたのは、ロマン派の詩人やスコット、テニスン、ブラウニング、エマソン、カーライル、ペイターといった連中で、今ではほとんど専門家以外には読まないだろう。小説にしたって、ジェイン・オースティンとブロンテ、ヴァージニア・ウルフといった女性作家と、スウィフトのようなアイルランド人ばかりが面白く、ほかはディケンズサッカレージョージ・エリオット(女だが)、ハーディ、スティーヴンソン、ワイルド、モームと、どうにも中途半端な顔ぶれが並んでいる。ディケンズの『荒涼館』だけは構造が凄いのだが、ほかは何か面白くないのである。行方先生には悪いが、『人間の束縛』(人間の絆)なんて、何が面白いんだかさっぱり、いったいこんな女のどこがいいんだと思うし、それを映画化した『痴人の愛』だって、ベティ・デイヴィスが不気味だし、善良な女のほうは妙に老けているし、男はなよなよしているし、おかしな映画ながら、原作のつまらなさを如実に写し取っている。演劇だって、ショーなんて今誰か読むんだろうか。シェリダンとかシングとかいるけど、まあ……。シェイクスピアがいなくて、アメリカ文学がなかったら、英文科はもっと早くに衰退していたんじゃあるまいか。

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http://www.kishimoto-fan.com/blog/2010/08/-6.html
岸本葉子さんが、蜂と戦う。お父さんの話が出てくるのが新鮮である。
 (小谷野敦