文学研究もいよいよ鳥羽伏見の戦いに敗れて徳川慶喜が大坂城へ逃げ出すあたりまで来たようだ。この場合「文学研究=武士」とする。
日本近代文学や英文学の人は、村上春樹、推理小説、アニメ、テレビドラマ、ホラーなどに手を出しておおわらわである。それをやれば本が出るというわけだが、果たしてそれらが売れるかどうかは知らない。ただ、売れるだろうという期待があるだけだ。
で、彼らは多分ある程度自己催眠を行っているわけで、村上春樹が好きかというと、「ほ〜らあなたは村上春樹が好きになる」と自分で催眠術をかけるのである。子供時代にアニメなんか観てなかった優等生出身の女性学者なんかが、アニメ昔から興味ありましたみたいな顔でアニメを論じるのである。50歳になるころまで漫画なんか読んだことのなかった田中優子・法政大総長はせっせと読んで、かろうじて学生運動時代の記憶につながる『カムイ伝』を論じられるのである。こちらはあたかも秀吉が死ぬと家康にとりいるみたいな感じであるか。
しかし方法は文学研究の、80年代にはやったアレでしかない。無残なことじゃ。
伊藤剛君がこんなことを言っている。
わたくしも「世の中の役に立たない」と思われがちな仕事に従事しておりますが、そういったものに関わっているという自意識が、いつのまにか「役に立つものに背を向けているオレ」というものに転化していると危ないと思うのです。「役にたつ/たたない」という二項対立から抜け出したほうがよいです。
— 伊藤 剛 (@GoITO) 2014, 10月 23
私はそんなことを考えたことがない。若いころは、どうやって就職したり世に出たりするか考えるだけだったし、まあ今だってそれに近いのだが、自分のやっていることは全体として価値があると信じてまったく疑っていないし、それを無用だとする者は間違っている、と思っているだけである。
(小谷野敦)