本が書けない人たち

 金×淳×も、『ユリイカ』などに著書の広告が出てはや二年。今私たちの興味関心は、これが三周年を迎えるか、どうかである。
 私は三十歳の頃から、周囲の人たちを、編集者に紹介して著書を出させようとしてきた。今思えば、親切なようで、恩に着せようとしていたのだろう。だが、うまくいかないことのほうが多く、うまく行ったのは、既に著書を出している人の例であった。
 さる英文学者が、今はなきカッパブックスで、シェイクスピアのソネッツに関する本を書きたいなどと言っていて唖然としたことがある。まあそれはそれとして、初めて本を出す時は、一冊分原稿を揃えて売り込まなければまず問題にならない。金×のようなのは、上×千×子だか誰だか知らないが、よほどの大物が押し込んだ結果としか思えないのである。その上×が、90年代初めに、日本で初めて男性同性愛について博士論文を「書いた」と言って興奮していたように記憶する古××は、実際は博士論文は書いていなくて書く予定で、それから六年くらいたって、私はこの古××と、某氏や某とカラオケに行ったことがあり、午前二時になって、みなが、帰ろうかと言っているのに、古××が、僕はまだ歌っていきますからみなさん帰っていいです、と言った時に、ああこいつは生涯書けないな、と思ったものだ(実際未だに書いてないし単著もない)。
 本一冊分を書けない奴というのは、これは本当に書けない。十年かかっても書けない。仮に出してもいいと出版社から言われて、編集者や周囲の人間からせっつかれても、書けない。そう、まるであの「超えられない壁」のように、書けないのである。かわいそうなのは、大物の押し込みのせいで、そういう人の本を出すことにして広告まで打ってしまった出版社である。しかし当人たちは、がんばれば書けると思っているらしい。しかし、その道は果てしなく遠い。

                                                                          • -

http://fukao.info/2006/05/26125.php

大学にも教養人のいる場所が徐々に少なくなり、いまではアメリカ風の "Publish, or perish"(出版せよ、さもなければ消えよ)という殺伐たる成果主義と、財界におもねったような中途半端な実用主義に陥って、

大学のことはもういいやと思っているのだが、こういうのはやっぱり気になる。昔のような教養人がいなくなった、実用主義に陥った、ってのはいいけど、日本の大学はまだ成果主義にはなってないでしょう。テニュア制も導入されていないし、新任教員だけは成果主義でも、前からいる人は完全に既得権益保護状態で、だからまずいのではないかな。