黒古一夫の村上春樹論

 私は『反=文藝評論』に徹底的村上春樹批判論を載せた時、黒古一夫による春樹論を見落としていたらしい。あの時はかなり網羅的に春樹論を見たはずなので、不明を恥じる。黒古には三冊の「村上春樹」を表題に含む著書があるが、うち一冊は私のあとで出たものである。また『村上春樹と同時代の文学』は、1990年のものだが、実際に春樹に触れているのは、『TVピープル』の時評めいた一文だけで、しかも最新の『村上春樹 「喪失」と「転換」の物語』は、第一部が『村上春樹 ザ・ロスト・ワールド』と同じなので、事実上黒古の春樹論は一冊しかないと言ってもいい。
 つまらぬことから書くと、黒古は、『風の歌を聴け』を春樹の「デヴュー作」と書いている。古い文章から最新の本まで「デヴュー」である。教養のないライターや佐藤亜紀などがよくこういう間違いをしでかすが、六十を過ぎてなお、「デヴュー」を英語のdeviewか何かだと思っているのだろうか。
 黒古は、春樹の作品を「失恋」のよく出る世界だと書いている。不思議に思って読むと、恋人が自殺するというのは「失恋」であるらしい。不思議な語法だと思う。さらに、こんな一節がある。

 <想い出>はいつも甘美なものである。たとえその<想い出>を形成する体験が、その 時点においては辛い苦しいものであったとしても、<想い出>として語り出される時に は、時間がさまざまな辛苦や苛酷を浄化してしまい、甘美だけを残すということになる 。『ノルウェイの森』も、「僕」の<想い出>として語られる以上、この<想い出>が その周囲にまとわりつかせる甘美と、決して無縁ではない。

 一般論としてそういうことを言うのはどういうものか。黒古お得意の原爆とか連合赤軍の<想い出>は甘美なものになるのだろうか。それとも、ここでは「恋愛の思い出」に限定しているとでも言うのだろうか。いな、恋愛の思い出であっても、いつまでたっても甘美にならないものもあるはずではないか。あるいはもしや黒古は、甘美になるような体験を<想い出>という表現で表しているのだろうか。だとしたら循環論法だ。
 また『国境の南、太陽の西』について黒古は、春樹がこれほど「酷評(誹謗中傷)」に晒されたことはない、と書いている。そうか、黒古にとっては、作品に対する酷評すら、「誹謗中傷」になるのか、とその特異なものの考え方に触れる思いがした。
 また最新著のまえがきで黒古は「余りに『オマージュ』ばかりの村上春樹論が横行しているのに、辟易してきた」と書いている。だが一方で内田樹は、なぜ知識人はこれほど春樹を毛嫌いするのか、と言っている。ここで気になるのは、学者でもある黒古が、どれほど先行研究や先行評論を読み込んでいるのかであり、当然ながら二〇〇七年刊の最新著でも、私による春樹批判は参照されていない。これはまあ、私も黒古著を参照し忘れたのだから一方的に批判はできないが、私の論は『村上春樹スタディーズ2000−2004』に入っているのだから、それくらい参照してほしかったものである。
 しかし黒古の意識は不思議な働き方をするのである。たとえば黒古は天皇制に反対である。ところが『同時代の文学』では、「人びとの基本的人権よりも優位にあるものとしての『天皇』、これを許容することは『民主主義=日本国憲法』に対する重大な裏切りである」とあって、椅子ごと後ろへひっくり返りそうになる。その天皇の地位を規定しているのが日本国憲法ではないか。むちゃくちゃだ。それに民主主義と君主制は矛盾しない。君主制は人権思想とは矛盾する。
 また黒古は、『アンダーグラウンド』のあたりで、春樹が「転換」したということを強調するが、別に春樹は、天皇制批判をするようになったわけでもないし、私からすれば、実に天皇制と調和的な作家であり、特に春樹絶賛の先鞭をつけたのは福田和也なのだから、黒古はこれ幸いと、福田−春樹ラインを批判しに行くのが妥当であろうのに、それはなぜかしていない。
 さらに『同時代の文学』には、中曽根元首相の肝煎りで「日本文化センター」ができたことを批判しているが、それじゃあ通信販売の会社だ。「国際日本文化研究センター」である。それはいいが、後になると、春樹が河合隼雄と対談したことを取り上げて、ここで春樹は社会へのコミットメントを宣言している、と言う。その河合は、その日文研の所長である上に、この最新著が出たのは二〇〇七年十月であって、河合が文化庁長官を務めて死んだあとである。そういう人と対談する春樹には、もう少し厳しくしたっていいのではないか。その「コミットメント」について黒古は、「九条の会」みたいなことだと説明しているが、春樹はそんなこと、していないではないか。黒古は最新著の最後を、いつも迷走する春樹という語で結んでいるが、そうじゃなくて、大衆からも国からも嫌われずにノーベル賞をとって文化勲章天皇の手から貰うという、そういう作家だというのが大方の観方だろう。
 まあ黒古先生というのは、小森陽一と親しいそうだし、井上ひさし天皇の茶会に呼ばれてほいほい出かけて行っても井上を批判しようとはしない、そういう人だろうと思いますけれど。

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 もはやこれは一種の都市伝説ではないか、と思ったのは、速水健朗ケータイ小説的。』の冒頭近くに、恋愛は西洋から輸入されたという説がある、などとあったからで、もっともこの謬見は議論に対して特に悪影響は与えていない。
 ただ、私はケータイ小説というのを読んだことがないので、内容が分かって面白くはあったが、著者のスタンス「ケータイ小説を読むような女子高生たちは文化から疎外されている=自分は理解している」というのが、あまりに宮台的であろう。つまり、「若者の異質な文化を理解している自分」に酔っているか、さもなくば、「若者文化を理解しなければいけない」という罪悪感へと人を駆り立ててそういう人に褒めてもらおうとしているか、にしか見えない。速水は「ヤンキー文化」と「ケータイ小説」をごっちゃにしているが、ケータイ小説論は今では流行しているし、既に『文學界』が「ケータイ小説は作家を殺すか?」なんて座談会をやっている時点で、無視されてはいないのだし、それを「被差別小説」なんて言い出すのは独善的な正義に酔いすぎである。だいたい、直木賞の世界では未だにミステリーは差別されているし(受賞しているのは本格ミステリーではなく、社会派のほうである)、SFは受賞していない。さらに言えばポルノ小説こそ差別されているのだが、速水は「性描写に関しての規制を敷くことに異論はない」などと、「子供に対して」などの留保抜きで簡単に言っていて、怖い。
 それに言わせて貰えば、明治からこの方、数多くの通俗・大衆小説があって、それらは文学史にも載っていないし、私はそういうのを『恋愛の昭和史』で極力取り上げたのだが、これに対して石原千秋は「日本人がいかにくだらない小説を書いてきたかよく分かった」と言ってきた。その同じ人が、「ケータイ小説は文学だ」とか言っているのはいかに。そういうことを言うなら久米正雄とか舟橋聖一とか読んでほしいものである。
 それに、「恋愛」を論じるのに『ロミオとジュリエット』を持ち出して、恋愛が物語になるには障壁が必要だが・・・などとやるのはあまりに素人っぽい。それに、ではケータイ小説はなぜ少女が読むものなのか、少年はどうしているのか、というのが分からない。私には分かっている。文学史を知っているから。ケータイ小説の書き手や読者が文学史的知識がなくても構わんが、論者がないのはいかんだろう(石原千秋も含めて)。速水とか石原とか、『薄雪物語』が徳川時代を通じての、女たちの読むベストセラーだったこととか、知っているのだろうか。
 (小谷野敦