太刀持ち露払い

 齋藤秀昭さんから『彷書月刊』を送ってきてくれたので坪内祐三の文章が読めた。ここで、横綱白鵬太刀持ち露払いについて、時天空と書いた作家(誰だか知らない)がいて、時津風一門時天空は原則として白鵬太刀持ち露払いはやらないので旭天鵬の間違い、としている。坪内さんが問題にしているのは、最近の、インターネットに頼った校閲で、これは私も同意である。こちらは現物を見て書いているのに、ネット上の間違った情報をわざわざプリントして送ってくる校閲とかがいる。
 それはさておき、この「原則として」である。太刀持ち露払いはまず同部屋力士が最優先だが、これは関脇以下の幕内力士が務める。ただ、大関が陥落した力士は使わないのが普通である。二人の該当者がいない場合、一門の他の部屋から借りる。しかし、同部屋だと横綱との対戦はないが、一門別部屋だと対戦することがあって、その日は太刀持ち露払いはできないから他に代わる。
 さあ、そうなると、出羽海、二所ノ関など力士の多い一門の横綱はいいが、高砂、宮城野・立浪・伊勢ケ浜連合、時津風など、力士の少ない一門から出た横綱の場合、該当者がいなくなってしまうことがある。ただし時津風一門は、柏戸以来横綱は出ていない。
 そういう場合は、やっぱり他の一門から借りてくるのである。ここにいい回答がある。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1011763025 
 実際横綱の綱渡りめくこともあって、一門に四人いても、一人が大関で、一人が途中休場し、一人と対戦する、という日にはもう借りるしかないわけである。この回答にもある通り、やはり弱小三門の間での貸し借りが多い。出羽、二所から借りるというのは見たことがない。

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やっと清水真木の『これが「教養」だ』を図書館から借りることができた。ずいぶん待った。安いんだから買えばいいじゃないかと言われそうだが、こんな珍妙なものを買うほど私は物好きではない。
 もう全編にわたる「ございます」口調が何ともあれである上に、内容もまた、体の中がかゆくなってくるようなものである。清水氏は大変よくものを知っている。ただし西洋について。頭もよい。東大で博士号をとったのだから当然だ。しかし根本的にネジが外れた人である。清水氏は、「教養」というのは18世紀のドイツに現れた概念であり、クルトゥーアとかビルドゥングというものである、マシュー・アーノルドの『カルチャー・アンド・アナーキー』は「文化と無秩序」ではなく「教養と無秩序」である、と説き進める。そういう風に、西洋における教養概念の歴史については、間違ったことは言っていない。ところが、いったんそれが日本に当てはめられると大混乱に陥るのである。たとえば清水氏は、「ウソをつけ、江戸時代には朱子学は必須の教養だったというぞ」(大意)と言う人がいるかもしれないが、教養という概念がなかったのだからそれはアナクロニズムである、と言われる。
 ああこの方は「古代人の性生活」といえば、それはアナクロニズムである。古代においては「性」という語はセックスを意味しなかったからだ、と言うのであろうか。
 たとえばここで清水氏が、儒教というのはどう位置づけられるのか、四書五経とは何か、前近代における「文学」とは何かといったことを論じていれば、様相は変わってきたであろうが、それは語られない。代わって語られるのは、近代日本における「教養」の使われ方である。
 比較文学者を名乗る人の中にも、こういう人は多く、初めに西洋文学などを研究していた人に多いのだが、西洋のことには詳しいが、日本については近代のことしか知らない、というような人で、「教養」は近代の翻訳語であるから前近代には概念が存在しないと、どうして哲学を専攻していて、こういう言語的な迷宮にはまりこんでいくのか、それは甚だ疑問である。

 どなたも、「あの人は学歴はないけれど、教養がある」というような発言を一度くらいはお聞きになったことがあるんじゃないかと思います。(154p)

 いや、ない。