ああ、かわいそうなアカハラ・・・。何の罪もない小鳥なのに、いつの間にかその名は別の意味を持ってしまって・・・。
アカハラの時効三年というのは、裁判にした時の損害賠償請求の判例の話だろう。大学へ訴えるにおいては時効はない。第一、大学で「アカハラの訴えは時効三年」などと定めたらえらいことで、たとえば修士一年の時にアカハラを受けても、学者の道を選んでいたら教授などを訴えることはできないし、三年たったって博士二年で、とうてい他大学に就職しているなどということはない。田中夫人の言い分はまるっきり「アカハラ擁護論」と変りはない。
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あと「ルサンチマン」という語は、本来の語義から離れて、単なる「怨恨」の意味で使う者がいる。ニーチェのいうルサンチマンは、弱者の怨恨であり、「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」と言いつつ、実は怨恨を抱いているとか、そういう隠された恨みを意味するものである。あるいはこれを批判したシェーラーの定義によれば、近代民主主義社会で、能力もない者らが、自分が社会的に低い地位に置かれたことを恨むといった怨恨のあり方である。だが、ニーチェの本来の意味でいうと、恨みを正面から表明するのは「ルサンチマン」ではないのである。
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『比較文学研究』の新しい号が届いたが、麻生建は出身者なのに、追悼の類は一切なかった。ああ、意図せずして学閥的行動をしている私って何?
私のクラスはドイツ語だったのに、なぜかドイツ科へ行った者はいない。ドイツ科から比較へ来た人といえば泉千穂子さんがいたが、美人でなんだか超然としていて、早くから児童文学の翻訳をしていて、大学の先生とかはしていないようだが、あまりドイツ科の様子は聞いたことがないなあ。
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河合祥一郎さんが平川先生の『アーサー・ウェイリー』を読売で絶賛していた。どういうわけか、平川先生は弟子以外の人から絶賛されることが多い。ただ私は、『源氏物語』の英訳にせよ現代語訳にせよ、どれがいいかなどという議論にはあまり関心がない。だって原文が読めるんだもの。まあこれに限らず翻訳論というのはあまり面白いものではなくて、あまりにひどい訳はいかんし、たとえば南洋一郎のようにばっさり自己流に書き直したルパンのほうが完訳よりいい、とかいう程度の話ならいいが、別段それ以上のものはないし、日本人がわざわざ日本文学を英訳で読むってのもおかしな話だ。
あとあの本で一番いかんのは、チェンバレン批判である。バジル・ホール・チェンバレンは『古事記』を英訳したほどの学者だが、あまり日本文学を高く評価せず、ウェイリーの源氏訳が出て、チェンバレンの名声は地に落ちた、と平川先生は書いている。しかしそんな事実はないのである。だって『源氏』は、猥褻だというので、明治から大正まで、日本の国文学者だって大して評価しておらず、鴎外だって文章が難解だと言っている。評価したのは与謝野晶子とか紅葉とか花袋、近松秋江らである。平川先生はハーンの敵であるチェンバレンが憎いから、どうしてもチェンバレンを貶めたくてこういうことを書く。しかし「世間が気づいていたかどうか知らないが名声が地に落ちた」などという矛盾したことを書いてはいけません。あ、これで私も名誉教授から言論弾圧を受けるのかな。
(小谷野敦)