裏切り

 海音寺潮五郎の『平将門』では、将門の幼いころからの友であった従弟の貞盛は、将門が源護の館を攻撃した際、父の国香がそこにいて死んでしまったが、将門の罪ではないと見て仇討をしようとは考えないが、これは真山青果の戯曲と同じ筋立てだ。海音寺のほうは、反逆者となりつつある将門を討つべく、貞盛を計略でとりこんでしまい、貞盛は将門と戦わねばならなくなる。
 中学生のころこれを読んだ私は、ああ誤解なのに、と思いつつ、将門が、経緯を知りつつやはり貞盛を敵と見なしているのがちょっと不思議だった。しかし、いったん敵にならないと誓った以上、いかなる経緯があろうと、敵となった貞盛は誓いを破ったのだ、というのが、将門の論理である。
 東大教授の某氏とは、大学院にいた頃から親しくしていた。しかるに、数年前から、著書を送っても何も言ってこず、メールを送っても返事が来なくなった。特に思い当たる節はなかったのだが、某氏は、今はどうか知らないが喫煙者で、学内禁煙に怒ってもいた。さて、例の東大雇い止め事件の際に、私は某氏に、怒りを伝えるメールを送ったのだが、これにも返事はなかった。
 何か、気に障ることを私がしたのか、と、最近まで思っていたが、どうやら某氏、私の反禁煙ファシズム運動に巻き込まれるのを恐れていたらしく、日和見を決め込んだらしいと分かった。
 裏切りである。保身である。私はここ数年、大学教授連のこうした保身の賤しさをつくづく感じてきた。私は某氏を断じて許さない。 

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棚橋正博氏の『捏造されたヒーロー、遠山金四郎』(小学館101新書)は、帯にけっこうハンサムな棚橋氏の写真と、推薦文書きの山本一力の写真で、売る気満々。
 しかし遠山景元の実像については、既に講談社現代新書遠山金四郎』などがあり、棚橋氏のオリジナルは、明治期に遠山金四郎がどう「桜吹雪」になっていったか、の考証だろう。しかし途中で、細かいことは先行研究を、と言っていて拍子抜けもする。
 棚橋氏は、人情本の研究者である。一般向けの本はこれが初めて。それで、本当は人情本についての本を出したかったのだろうが、それでは企画が通らないから、天保の改革人情本を取り締まった遠山金四郎は本当は悪い奴だという仕組みで、人情本を語ろうというわけ。
 そして、世間では近世文学というと何かポルノ風のものだと思われていると、結構怒りをこめて、人情本はポルノではない、と力説する。しかし、本当に世間ではそうか? 芭蕉の本だって多いし、もし最近そう見えるとしたら「春本」に関する一般書が多いからで、それは福田和彦、白倉敬彦早川聞多とかを恨むべきものであろう。第一、棚橋が「自称近世文学研究者」の女たちの座談会を攻撃しているが、この人たちは、懸命に「春本春画はポルノではない」と主張しているのだ。どうも二重、三重にこんがらがった本である。
 こんなことになるのも、人情本に関する本が寥々たるものだからで、大正-昭和期に「人情本刊行会」からぞろりと出たものの今では入手困難、『洒落本大成』『浮世草子集成』はあるのに人情本の叢書はないし、一般向けの人情本に関する本もなし、まるで人情本といえば為永春水しか作者がいないみたいに思われているからである。今度やっと『人情本事典』が出たが、「為永派人情本の研究」って本があったような気がしたが、あれは私の小説の中に登場するのだった。