告白の代償(2)

 微妙な緊張感の中、テーブルの向い側に坐った湯沢夏生は、鞄から数枚の写真を取り出した。そこにはいずれも、二人か三人の女性が写っていた。夏生自身はいなかったし、知った顔はなかった。
 これは? という風にそれを見ている私に夏生は、
 「はい、この中でヘテロはどの人でしょう」
 と言った。私はおぼろげに、夏生が何を話そうとしているか、分かった。むろん、そんなことは見て分かるものではないから、私は適当に、この人かなあ、などと指さした。夏生は、これはヘテロ、これがゲイ、という風に言って、写真をしまうと、今度は、手描きの漫画の原稿を取り出した。
 それは三枚程度で、前衛的というか『ガロ』風の漫画で、筋はなく、何か抽象的なものが描かれていて、その一つが女性器であることが分かった。文字は「この人が違う快楽を教えてくれた」とか、そんなことが書いてあった。
 そして夏生は、
 「これを描いたのが、私のパートナー」
 と言った。
 それから、夏生が断片的に話したことは、だいたいこんなことだった。その相手の女性は漫画家を目指していて、東京で一緒に暮らしていたが、夏生が大阪へ来てからは、あちらにはカネがないから夏生が何度も東京へ出ては会っていて、金銭的にも苦しかったが、ようやく彼女が大阪へ移ってきて二人で暮らせるようになりそうだということ。
 元からレズだったわけではなくて男とつきあったこともあったが、嫌な思いをしたこと。
 「男でもいいんだけど…・・・あたし、胸が大きいから、それを目当てに来る奴が多いんです」
 言われてみると、確かに夏生の胸は大きいようだ。私は女の胸にあまり関心がないから、今までまったく気づかなかった。いや、むしろ、夏生に女としての関心を抱かなかったということかもしれない。
 もっとも、「男でもいい」と言った時、私の頭には、いっぺん小谷野さんとやりたい、というような台詞が出てくるのではないかという期待もあった。しかしもちろんそんなことはなかったが、夏生の「告白」は、レズであることをめぐる様々な困難へと移って行った。
 母親が上京するというような時は、一人暮らしをしているように装うために大変だったことや、とうとう一年ほど前に両親に打ち明け、父親は何とか理解しようとしてくれたが母親が取り乱して、彼女は絶望し、電車に飛び込もうかとも思い、とうとう「いのちの電話」に掛けてしまった、といったことである。
 「あたしも、弱いから…」
 と言ったのは、そんな、知識人が「いのちの電話」に掛けるなどということを指してのことだが、私は、
 「いや、それは別に、いいでしょ」
 と答えた。むろん私の頭の中では、同性愛者に対する差別的発言をしてはいけない、といったことが渦巻いていた。
 夏生はしかし、
 「でも、フェミニズム系のところに相談したりしなくて良かったと思う。飽くまで戦えみたいなことを言われたら、却って大変だった」
 と言った。両親とはいい関係にある優等生らしい。
 だが、私に精神的ダメージを与えたのは、次の話だった。
 大学の行事で地方へ行った時、教授と一緒にタクシーに乗っていて、教授から「君はノーマルなのか?」と訊かれたというのである。彼女は、レズでもノーマルだと思っているから、ええそうですよと答えたが、緊張のあまりそこで吐いてしまった、というのである。
 私は、人が吐くのを見るのはもちろん、吐きそう、と言うとか、吐いてしまったとかいう話を聞いただけで吐き気を感じてしまう。それで、その時もそうなったが、むしろ、吐いてしまうほどの緊張を、湯沢夏生が感じたというのが伝わってしまったからだと思う。
 夏生は、このことは小谷野さんには打ち明けるけれど、ほかの人に言わないでくれ、と言った。これはまずいと思った。夏生は私を「正直」と評したけれど、それは裏返せば、秘密を守るのには向いていないということでもある。
 「カムアウト」はできないのか、と、この時だったか後になってだったか、私は訊いたことがある。夏生は、「アメリカの大学なんかでは、セクシュアリティで差別してはいけない、ってちゃんと書いてあるけど、日本じゃあダメです」と言った。その後、セクシャルハラスメント規定などもできたし、私は重ねて、同性愛だって分かったからクビってことはないでしょう、と言ったが、それでも色々な嫌がらせに遭う、と言っていた。
 『「レズビアンである」ということ』という本を書いた、掛札悠子さんという人がいたが、夏生は、彼女も喰うや喰わずみたいです、と言っていた。
 夏生は、
 「ゲイって、ポリガマスなんです」
 と言った。一度に複数の相手とセックスすることも少なくないらしい。むろん、それが異性愛者と比べてどの程度の比率かは分からない。夏生は、男とは二人、女とは二人、寝たことがある、と言った。
 運ばれてきたカレーは、いかにも不味そうだったが、カレーだからそれほどひどいことはなく、しかし私は「吐いた」話で食欲を失い、夏生にも、ああいう話を聞くとダメなんだよと言い、ごめん、と夏生は笑い、私は半分くらい食べた。
 しかしこういった、汚い喫茶店、「告白」の手順の重苦しさ、レズビアンであることよりも、それをめぐっての彼女の苦しみを聞いたことが、私の神経をささくれだたせ、帰宅する電車の中で、閉所恐怖を感じたほどであった。
 それから以後、一年ほどは、私と湯沢夏生の関係は良好だった。私はシンガポールから帰っても、精神状態は良くならず却って悪化して、三月に実家へ帰った時は夏生に宛てて葉書を書いて、「自律神経失調症で参っています」とした。四月に大阪へ帰って、私は湯沢夏生が、「パートナー」と一緒に住んでいる小綺麗なマンションに招かれた。途中でその女性も帰ってきて、最後は三人で、外で食事をした。
 その頃私は二冊目の著書を出したところで、一冊目と同じように無視されるのではないかと怯えていた。しかし夏生は、「自律神経失調症なんて、女子高生が罹るみたいな病気」と言って、笑った。私は、実際には自律神経失調症ではなく不安神経症だったのだが、それにしてもなぜそこで「笑う」のか、分からなかった。漫画家志望の女性のほうは、環境問題に熱心で、合成洗剤を使ってはいけない、石鹸でいいんです、と力説した。それで私はそれからしばらく、なかなか見つけにくい粉石鹸で洗濯をし、洗濯用石鹸で食器を洗ったりしていた。
 (小谷野敦

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分かっていないやつが多々いるようだが、路上喫煙に対してカネをとるのは「課金」「過料」であって、「罰金」「科料」ではない。後者は刑法上のものだが、この場合警察は関与しない。そうでないと明白な違憲立法になるからである。「罰金」とか書いているのはみな間違い。過料と科料の違いはウィキペディアに書いてあるぞ。