告白の代償(1)

 それが大阪のどの辺だったかは覚えていないが、恐らく梅田からそう遠くはない場所だっただろう。十一月半ばの、夜六時を過ぎていたから、あたりは暗く、街灯もあまりなく、人通りも次第に少なくなっていった。
 私をどこかへ連れて行こうとしている湯沢夏生(なつみ)は、喫茶店へ行くと言っていたが、こんなところに喫茶店があるのだろうかと、私は思った。
 湯沢夏生とは、私が大阪へ来る前に、シェイクスピアの学会で再会した。最初に会ったのは、まだ修士課程の院生だった頃、英会話を習いに通っていた学校でのことだった。美人というのではない。ただ英語の発音がいいのに驚いた。そんなにいいなら、英会話など習いに来なくてもいいのに、と言ったら、使っていないと忘れちゃうから、と言った。
 夏生は女子大の大学院生で、ほどなく私同様、シェイクスピアを専攻していることが分かったが、シェイクスピアを専攻しているなどというのは、英文学を専攻しているというのと同じで、それほど特異なことではないから、それだけで特に湯沢夏生に関心を抱くほどのことはなかった。
 それから二年ほどして、東京の私大で開かれたシェイクスピア学会で声をかけられて、ちょうどお昼どきで、二人とも特に連れがなかったので、近くの喫茶店へ抜け出して軽い昼食を摂ることになった。彼女は何でもその年から、阪神間、西宮か神戸か、そのあたりにあるらしい私大の英文科の専任講師になっていた。もともと実家が大阪の南のほうにあるというので、へえ、そりゃいいなあと私は思った。
 私もそろそろ大学に就職したい頃で、その年は英語の非常勤講師をしていたが、自分が関東出身だから、首都圏ならいいがと思いつつ、それはけっこう難しそうだ、と思っていたからだ。どうせなら大学教員の採用も、地元出身の人を優先してほしいもので、そうすれば老親の介護のために東京から九州へ通うとか、盆暮れの帰省ラッシュなどという日本独特のバカげた慣行もなくなるのに、などと思っていた。
 湯沢夏生は、現代日本の文学や批評にも関心があったから、話はわりあい盛り上がったし、有名な批評家のゴシップなども聞くことができた。美人ではないが、にこりと笑うとその笑顔が魅力的だった。もっとも、それ以上の感情を彼女に対して抱くことはなかった。 
 ところが、それから一週間ほどして電話があり、私を大阪大学の言語文化部で英語の専任講師として招くという話だった。大阪というと断る場合もあるようだが、既に博士課程三年目が終わろうとしていた私は、ほとんど一も二もなく受けた。もっともそれはまだ、話が出て、本人の了解をとるという段階で、ちゃんと決まるのは七月ころ、教授会で正式に決まるのは秋だということだったが、だいたい大丈夫だろうとのことだった。
 それで私は、両親にも本決まりになるまでは話さずにいたが、英文科の同期生に電話で話したら、心配そうに、「大阪に知り合いとかいるの?」と訊かれた。私自身は、大阪へ行くということについてさほど懸念はしていなかったのだが、あとで考えたら、やはり土地勘のないところに住まうのは大変なことだったし、もう一つ、大阪大学のような一流の大学へ行くと、それで満足だろうと思われて、東京へ戻る道がなくなり、定年までいるかもしれない、ということがあったのかもしれない。
 もっとも、そう言われて私はふと湯沢夏生のことを思い出し、すぐに大阪の夏生のところへ電話を掛けると彼女はいて、大阪へ行くかもしれない、と話すと、
 「わあーそうなんですか、じゃあおいしいすき焼き知ってるんで、案内しますね」
 と言われた。
 大阪にはほかにも知っている人はいたが、翌年の四月に赴任してほどなく、夏生と一緒に梅田の料理店ですき焼きを食べることになった。夏生は、
 「小谷野さんって、論文によく、自分が出てきますよね」
 と言い、
 「それが、正直さがあるから、なんか信用できるんです」
 と言った。
 ところが私は、酒乱の同僚に恫喝されたり、別の女性に失恋したりして、初めての日本での一人暮らしで、夏ごろから少しずつ精神を病み始めており、十月には、ワンルームほどの閉塞感のあるマンションで、パニック発作を起こして外へ飛び出したり、自動車や新幹線といった、狭かったり長く止まらなかったりするものに恐怖を感じるようになっていた。
 それは秋のことで、私は十二月には、シンガポールで開かれる学会に出席することになっており、果して飛行機に耐えられるかどうか不安で、できたばかりの関西新空港を、一週間前に下見に行ったりしていた。
 これはその後でもっとひどくなるのだが、私は孤独と不安を紛らわすために、大阪へ来てから、十三のヘルス店へ行ったり、ストリップ劇場へ通ったり、マンションから歩いて十分ほどのところにあるヴィデオ店へ行ってアダルトビデオを買ってきたりした。
 ちょうどその頃、湯沢夏生から、ちょっと話したいことがあるから、会わないか、と言ってきた。女からこう言われたら、好きですと言われるのかと思うのかどうか、分からないが、少なくともこの場合はそういう雰囲気ではなくて、何か秘密を打ち明けるという感触だった。
 なぜか私には、その内容についての予想ができなかった。男関係のごたごたでもあるのか、と思った程度だったか。
 しかしむしろその頃私は精神状態も体調も悪く、あいにくその前日、気持ちの悪いアダルトビデオを観てしまった。いわゆるSMものだが、私は暴力的なAVは受け付けないのである。しかもそれは、童顔の女優を縛って責めるのみならず、別の女優を連れてきて、主演女優の顔をその女優の臀部に近付けておいて浣腸をし、大便が噴出し、主演女優はおえっと吐きそうになる、というもので、観ているほうも吐き気がして、そのあとビデオを、燃えないゴミを入れる袋の中へ叩きこんでしまった。
 その名残の微かな気持ち悪さを抱えて、翌日私は阪急電車に乗って梅田の待ち合わせ場所である、駅構内の紀伊国屋書店へ行き、湯沢夏生に案内されて、こうして暗い道を歩いているのだった。
 人けのないビルの脇に、地下へ降りる階段があり、夏生はそこを降り、私もついていった。そこは、割と殺風景に広い喫茶店で、しかし普通の喫茶店ではなく、左翼・アングラ系のそれのようだった。以前にも私は、さる同僚に、アムネスティ系の人がやっている店へ連れて行かれたことがあったが、それと雰囲気が似ていた。
 湯沢夏生は、むろん当時の女の英文学者の常として、フェミニズム批評もやっていたし、言うことも左翼っぽかったが、その店はいかにも不潔で、それが既に私の疲弊した神経に刺さった。
 私たちは、その一番奥のテーブルに座を占めた。時間的に、夕飯時になっていたから、何か食べ物を注文することになったが、痩せて背の高い、エプロンを掛けたウェイターが来た時には、私はとても健啖に食事のできる状態ではなくなっていた。むしろ、早くこの店から逃げ出したい、とすら思っていた。
 むろん私は、湯沢夏生が何を言い出すのかという不安もあった。それは、どうやら私自身に関係するものではなさそうだということは、ここまでの道程での雰囲気で分かっていた。その時私の頭を去来したのは、実は赤軍派に属しているとか、時節遅れの学生運動で人を半殺しにしたことがあるとか、そんなことだった。
 大学院修士課程の時にも、同年の一つ上の先輩女性が、演劇活動をしていて、彼女に誘われて、後に大学構内で無断で演劇を上演して警察に逮捕された風の旅団という劇団の公演の千秋楽に行って、誘われるまま打ち上げに参加し、その女性の友人の、精神を病んでいて薬を呑みながら出演しているという子の、好きだった男子団員が辞めてしまったとかいう話を聞き、酒も飲めないのに、ラーメン丼に瓶から注がれた日本酒を少し呑んだりしたことがあった。
 今の私なら、なぜ左翼とか反体制だと不潔でなければならないのか、と言えるが、当時はまだ、そのような不潔さに不快を感じる自分にはプチブル根性があるのではないか、というような罪悪感があった。
 私はプチブルというような家の出ではないが、むしろいい家出身の者のほうが、違う世界に引かれるものを感じて、左翼運動などに関わったりするものだ。