豊田正子の戦中と戦後   諸君! 2007年4月


 私が文学書の類を読むようになった高校時代、岩波文庫には、存命の作家はほとんど入っていないように感じていた。だが調べてみると、何も同文庫が最初から、存命の作家はなるべく入れないという方針をとっていたわけではない。創刊してしばらくは、緑帯の日本近代文学、青帯の評論等、赤帯の外国文学に、存命の書き手はかなり入っていた。岩波文庫では、創作の場合は「川端康成作」、評論等の場合は「ルソー著」とはっきり区別して書いている。ところが次第にそれらの書き手が物故していき、古典的なもの以外は入れないという方針をとっていたために、そのほとんどは物故著者のものになっていたのである。日本近代文学ではその頃、存命の作家は、石川淳野上弥生子くらいで、次いで野間宏串田孫一が入ったが、いずれもその後没したので、今では木下順二高杉一郎がいるくらいだ。そしてもう一人、豊田正子の『綴方教室』が山住正己の新編集で入ったのが一九九五年のことである。これも、存命の作家である。
 私は谷崎潤一郎の対談集を編集しようとして古い雑誌からコピーをとっていたが、その中に、昭和十四年三月の『婦人公論』で、「谷崎潤一郎氏を囲んで 一流女流作家座談会」というのがあった。『源氏物語』訳の完成を機に行われたもので、茅野雅子、森田たま、吉屋信子宇野千代、今井邦子という顔ぶれである。その中で、ちょうどそのころ『続 綴方教室』を出したばかりの豊田正子が話題になり、谷崎は読んではいないが映画は観たと言っている。そこで私は、買ったままになっていた岩波文庫の『新編 綴方教室』に目を通した。
 豊田は大正十一年、東京の貧しい職人の家に生まれた。昭和七年、小学校四年の時、担任教師の大木顕一郎が、当時綴方といった作文指導に熱心で、豊田を指導し、その作文が『赤い鳥』の投稿で入選し、鈴木三重吉の講評を受け、続いて六編が入選したという。三重吉は昭和十年に『綴方読本』を中央公論社から刊行し、よく売れたので、豊田を中心とした『綴方教室』を計画し、大木と清水幸治の二人の教師に話を持ちかけた。だが十一年、三重吉は肺癌で没し、その翌年、『綴方教室』は中央公論社から大木、清水著として刊行され、四百部のスタートだったが、ベストセラーとなった。内容は、豊田を中心にした児童の綴り方と、教師たちと三重吉の講評から成っていた。しかし綴方そのものには教師によって削除斧鉞が加えられていた。
 岩波文庫版は、一九八四年に木鶏社から、原文を復元して出された『綴方教室』を底本にしている。はじめの方に出てくる、四つになる弟の光男を描いたものでは、

 光男は、よそのおじさんだの、おばさんだの、八百屋だの、くる人には、おもしろいこ とをいうのです。それは、そのきた人たちに、「おじちゃん、おまんこ、ちた」という ことです。おじさんたちや、おばさんたちが、「としよりだからしないのよ」とわらい ながらいいますと、「うちょだよ」といいます。そういう時には、家中お笑いをいたし ます。
 
 という、岩波文庫としては驚くべきことが書かれている。これは、昭和初年の庶民の家庭の、性に対するあけすけな姿勢を示していると言えるかもしれないが、一九九○年代以前であれば、岩波文庫がこれをそのまま刊行できたかどうか、疑わしい。
 正子は、その刊行当時、十四、五歳で、工場の女工として働いており、一躍国民的な有名少女となったが、実は『綴方教室』の印税は一文も入らなかった。著者である大木と清水がとったのである。昭和十三年には映画化され、子役の高峰秀子が主演した。十四年には『続綴方教室』が大木の編で刊行され、その十月から正子は『婦人公論』にいくつかの短編を発表した。十六年には『粘土のお面』がやはり中央公論社から出ているが、これらの印税も原稿料も豊田には入らなかったという。
 さて豊田は昭和十七年、陸軍報道部の要請で、シナ視察旅行に出掛け、翌年はじめには、満州新聞社の招きでソ連との国境地帯を視察し、文体社から『私の支那紀行』を出している。戦後書かれた「さえぎられた光」(一九五九、『傷ついたハト』〔理論社、一九六○〕『さえぎられた光』〔木鶏社、一九九二〕)で豊田は、
 
こうした大陸旅行は、どちらも軍の宣伝部が、戦争がいかにうまく進行し、いかに成果をあげているかを、私どもに見せるためであった。私はすでに十九才になっており、いくつかの作品を発表してはいたが、思想上また政治上の問題については、まったく無知であった。(略)こんどの大戦争が、歴史的にどんな意義をもっているかを自分で判断するだけの知識も能力ももっていなかった。ずいぶん恥かしい話であるが、初めて飛行機にのせてもらえて、珍らしい外国の土地と風俗を官費でみせてもらえるのが嬉しいばかりに、出かけたようなものだった。(略)
 しかし、こういうおろかな私でも、ときどき、軍の宣伝とはまったくちぐはぐな、奇妙な光景に現地でぶつかった。(後略)

 と書いているが、山住は『私の支那紀行』から引用している。南京の光華門の激戦のあとを見た豊田が、日本軍の奮戦の様子を聞かされて思わず涙ぐみ、「城壁を下りて城門をくぐる。トンネルのような門内は、虫食いのあとのような無数の弾痕が見られるのだ。いまこの弾痕に小鳥が白い巣をかけて、通行人の頭上を飛びかっている。突撃路も墓標も弾痕も、いまはただ静かに五年前の思い出を物語っている」という文章である。そして山住は、「この一文からは、五年前に日本軍がこの地で何をしたのかを見抜いているのではないか、そこには綴方執筆によって育った冷静な観察にもとづく思考力・洞察力が働いていたと思える」と書いている。私はこの文章を見て、山住の解説に疑念を抱いた。もちろん、南京大虐殺を示唆しているのだが、千里眼ではあるまいし、と思ったのだ。
 数年前、戦時中、「李香蘭」の名で日支友好映画に出演していた山口淑子が、軍部の宣伝に利用されていたことに気づかなかった自分を語り、「ばかだったんですね」と涙ぐむ場面をテレビで観て、私は山口の演技力に思わずもらい泣きしたのだが、そもそもその当時、大人であっても、東亜解放の大義を信じていたのであって、少女といっていい豊田や山口が「自分はおろかだった」「ばかだった」と述懐するのは、私には偽善としか思えない。時勢に合わせてものを言っているという点では、戦中も戦後も、彼らの精神構造は同じではないのか。
 大木顕一郎は、昭和十八年肺結核で死んだ。豊田が受け取るべき印税をネコババしたこの教師について、豊田は昭和二十年八月、『思ひ出の大木先生』を大成出版から刊行している。ところが不思議なことに、山住はこの「解説」で、豊田の戦後について触れていない。作家の高橋揆一郎による『粘土のお面』の解説から、一九八二年に高橋が豊田とともにシナへ出かけた時のことを引いているが、それまで豊田が何をしていたのかが分からない。豊田は戦後日本共産党に入り、Kという青年と結婚したがすぐに別れ、昭和二十七年から、三十三歳年長の作家・江馬修(しゅう、本名なかし)と事実上の結婚生活に入ったのである。
 江馬は長編『山の民』を代表作とする、知る人ぞ知る左翼作家で、文化大革命時代の社会主義シナでは、最も有名な日本の作家だったと言われている。明治二十二年生まれ、十七歳のとき田山花袋の書生となり、四十四年、処女作を発表。大正三年、二十五歳のときに中村くめと結婚、五年には長編『受難者』をベストセラーにしている。七年には長女まり子出生、十年には次女実子出生、昭和二年、くめと離婚し、富田ミサホ(のち改名して三枝子)と再婚、この年プロレタリア藝術連盟に入る。昭和十三年、『山の民』第一部を刊行、五十五歳で敗戦を迎え、翌年日本共産党に入党し、豊田と同居を始めた時は六十二歳だった。江馬と豊田の関係はそれから二十二年続き、豊田は江馬夫人としてマスコミから扱われていた。三十四年、豊田は初の長編『芽ばえ』を理論社から刊行、三十五年には「さえぎられた光」を収めた『傷ついたハト』、三十九年には全二巻の長編『おゆき』をやはり理論社から出しているが、このころ江馬は、若いピアノ教師の天児直美と知り合い、次第に恋におちていった。昭和三十八年、江馬と初めて会った時の天児は国立音楽大学三年生の二十一歳で、江馬は七十三歳だった。
 そのことは、江馬の死後、天児が書いた『炎の燃えつきる時--江馬修の生涯』(春秋社、一九八五)に詳しく書いてある。天児が出入りするようになり、江馬の気持ちがそちらへ向くのが分かって、豊田が嫉妬し、天児が苦しむ。そのころ天児はピアノのことと片思いで苦しんでおり、江馬との関係でさらに苦しんで、しばらく旅に出ると手紙を書いて江馬夫婦に出したが、江馬が自ら訪ねてきて、二人で外へ出て、天児は江馬の胸のなかに泣き崩れたという。その頃、中国共産党と対立し始めた党の方針に反対して、江馬は離党した。翌年正月、江馬と豊田は、中国作家協会の招きで訪中しているが、その前の十二月十二日、江馬と天児は二人で江馬の喜寿の祝いをしたという。そして江馬から、こんなラブレターが届いた。
 
いとしい いとしいなおみ! 死ぬほどいとしいんだ、どこへ行っても どこにいても お前が私にからみついている、私のたましいは なおみでいつも充たされているばかりでなく 私の一切の感覚はお前の肉体のすべての部分といきいきと結びついている
 いま私はしばらくお前とわかれて中国へ旅立とうとしているが たとえお前と数千キロ離れたところにいても 私の愛に変りのありようがない(略)私くらいの年になってお前のような純情で無垢な若い女と恋愛関係を結ぶのに 死のかくごを伴わないでできるものではない
 しかしなおみが私を理解し 私の愛をうけいれてくれた以上、私はあくまで生きたい、なおみのためにも生きぬいて、お前との恋愛が意義ふかい結実を示すような良い仕事をつづけたい思いでいっぱいだ(後略)
   一九六七年一月七日     お前の誠実な修
                             
 「略」は天児著のままである。江馬は三十九年に創作集『延安賛歌』を出して、中国共産党への心酔と支持を明らかにしている。
 豊田と江馬は、一九六七年一月、北京から延安に至る一ヵ月半の旅をした。江馬は天児には、「離婚旅行」だと言っていたという。しかし、文化大革命さなかのシナで、二人は何を見ただろうか。文革で多くの人が無残なまでの弾圧にあったことは、今日よく知られている。その一人で、作家の巴金が昨年百歳で没したが、巴金は一九七七年、毛沢東の死と四人組の失脚のあと名誉回復し、以後、激しく文革を批判しつづけた。高橋揆一郎は、豊田を描いた『えんぴつの花』(文藝春秋、一九八九)でこう書いている。

中国に関して豊田さんがまるきり無口だったかというとそんなことはない。上海に住む中国作家協会主席の巴金氏のことについては実によく話してくれた。その肩書きが示すように巴金氏は中国文壇の長老で、一九二九年ごろから執筆活動を始めていらい作品の字数は六百万華字(漢字)にものぼるといわれ、代表作には大封建家族の崩壊を描いた『家』『春』『秋』の三部作がある。
 その巴金氏もまた、あの文化大革命では自己批判を強要されてさまざまな迫害に遭い、心ならずも節を枉げようとしたこともあり、死を選ぼうとして夫人の嘆願で思いとどまってもいる。この間、日本の知人友人たちが励まし続けた。豊田さんもそのひとりだったそうだ。
 文革がやみ、四人組の専横も終わりを告げたあと、巴金氏は来日して日本の友人たちへの感謝のつどいを催した。大勢の聴衆を前に巴金氏は涙ながらに支援を謝したが、そのさいに巴金氏の心境を綴った一文を朗読したのが豊田さんである。豊田さんは泣きながら読み、聴衆もすすり泣いた。(一七頁)
 
 巴金が来日したのは一九八○年で、朝日講堂で「わたしの文学生活五十年」と題する講演を行い、これは「朝日新聞」に掲載された。巴金は『随想録』に続く全五冊の回想録を出しているが、その一冊『探索集』(石上韶訳訳、筑摩書房、一九八三)に、次のように書いている。

私は上海の自宅にいた間に、七千字の講演原稿を書き上げ、北京で人にたのんで日本語に訳してもらって、東京へ持って行った。講演会は四月四日に行なわれたが、その前夜、事務局の人は、作家豊田正子さんに会場で訳文を読んでもらおう、と提案した。豊田さんは、亡友江馬修氏の夫人で、事務局で働いていた。彼女は二つ返事で引受けた。よどみなく読んで、より好い効果を収めようと、彼女は徹夜で訳文を清書した。彼女も、何のためにそんなことをしたのだろうか? これもやはり友情のためではなかったか!
 その講演では、文革当時、井上靖水上勉開高健といった作家たちが立ち上がって、老舎の冤罪を訴えたと述べたという。
 文化大革命について、当時、朝日新聞のようなマスコミや、新島淳良、安藤彦太郎、菊地昌典のような学者、文化人が全面的に礼讃したことは知られており、その総括は、宮森繁『実録 中国「文革」礼賛者たちの節操』(新日本出版社、一九八六)で行われている。江馬はその中でも、ぬやまひろし、西園寺公一との繋がりがあったが、ここでは触れられていない。新島などは、文革の実態が明らかになってから早大教授を辞職し、ヤマギシ会に入り、一旦は抜けたが再び戻って先年没した。そういう意味では責任をとったほうであろう。一番図々しいのは安藤、および岸(安藤)陽子のように早大教授の地位に留まりつづけた者たちだろう。もっとも、岸は今なお文革の意義を認めているようで、最近の『中国知識人の百年』(早大出版部、二○○四)でも、文革を礼賛してはいないが、否定しきることもできないとしている。高橋はこう書いている。

江馬氏との共著『不滅の延安』が刊行されたのはこの年の秋である。すでに日本共産党を離れて久しい豊田さんだったが、訪中の旅で、額に汗し、土ぼこりにまみれてひたすら革命の聖地延安へ向けて歩き続ける男たちに素朴な共感を覚えた、というより美を見たということだろう。
 イデオロギイはともかくとして、あの真摯な姿がとても感動的だったと、十年後に私たちと訪中した豊田さんはそういった。豊田さんの、中国と中国人への思いは、理屈を越えて心情的に抜きがたいものとなっているのである。
 
 この文章は、おかしくないだろうか。巴金があれほど憎む文革について、もはや十九歳の小娘ではない豊田が、イデオロギイはともかくとか、理屈を越えて心情的にとか言うのは無責任である。とはいえこれは高橋の文章である。ではその『不滅の延安』を見てみよう。これは江馬とぬやま・ひろしがやっていた『毛沢東思想研究』に一九六七年五月から九月まで五回にわたって「西安から延安まで」と題して連載され、十月にぬやまが経営する五同産業の出版部から刊行された。表紙には『新中国紀行 第一部 不滅の延安』、中扉には『プロレタリア文化大革命の新中国紀行〈第一部〉不滅の延安』となっており、著者は豊田正子である。共著と高橋が言っているのは、「実は共著」という意味でしかありえず、江馬は「あとがき--本書の協働者として--」を書いているだけである。刊行時、本の広告ポスターが都心の各電車に派手に貼られた、と天児は回想している。
 延安で、毛沢東住居跡を訪ねた二人は、一九四二年の「延安の文学・芸術座談会における講話」の行われた会場へ行き、その記念写真を見る。小さくて分かりにくかったが、

 それでも江馬は、そのなかに、指導的幹部らのほかに、親しく知っている何人かの文学者たちの顔を見わけることができた。まず、周揚がいる、丁玲と艾青がいる、某の尊大ぶった顔もあった・・・・・・
 プロレタリア文化大革命の中で、もっとも悪質で陰険なブルジョア反革命路線の代表的人物としてバクロされた連中が、どうどうと顔を並べている。そしていまさらながら、あの文芸講話がどんな状況のもとで行なわれざるをえなかったか、そしてその後の革命の進行にとってそれがどんな重大な歴史的意義をもっていたか、あらためて考えてみずにいられなかった・・・・・
 
 『不滅の延安』は、全編この調子であり、文革および毛沢東のまったく留保のない絶賛の書である。さらに豊田は、通訳のGさんから、
 
 「食事の後で、うらの集会所で、原爆実験の記録映画をみていただくそうです。みごとな天然色映画で、第三回の実験までとってあります」
 「ありがたいっ」と叫んで、私は右手のこぶしを左の手のひらにつよく打ちつけた。この映画は、このときにはまだ日本へきていなかったし、北京へきても、一月革命のあおりでまだ見る機会が得られなかったからだ。
 
 として、その記録映画を観ながら、
 
私は思いがけないことに、このすばらしい映画をほかならぬこの延安でみる機会をえたことに、ふかい感動をおぼえずにいられなかった。
 というのは、第一回、第二回、第三回と原爆の実験が勝利的に成功するのをみて、われ知らず熱烈な拍手をおくりながらも、(中略)不屈な精神の、そのごの少しもゆるみのない奮闘と、努力のつみ重ねのうえに、この原爆の実験成功というすばらしい勝利がかちとられたのだ。それを思って、わたしはいつとなく涙で頬をぬらしていた。
 部屋にもどり、江馬と二人きりになってからも、あついお茶をすすりながら、映画からうけたつよい感動についてあれこれ話し合った。彼は中国政府が、最初の原爆実験に成功したときからたえず一貫してくり返している主張、「われわれはあらためておごそかに宣言する、中国はいかなるとき、いかなる状況のもとでも、最初に核兵器を使用することはない」という宣言こそ、真に平和を求め、終極的には核兵器の消滅をめざして戦う決意があってこそ初めて言いうるものである、と言いきった。
 
 現代の日本の若者が読めば仰天するだろうが、この頃は親ソ派もまた、米国の核兵器保有を非難しつつソ連保有は認めるという驚くべき態度をとっていたのである。またその間に、大衆が「毛主席万歳、万々歳!」と叫ぶのを聞いて、豊田はこう思う。

私たちは日本にいたころ--それだってついこの間のことであるが--ある種の人たちは中国を中傷し、非難するために、なにかといえばすぐ「個人崇拝」というあいまいな、妙な言葉をもちだしてきた。そしてこの言葉の護符さえもちだせば、この世にもはや恐れるものはないように、「中共は計画的に毛主席への個人崇拝をあおっている」「毛沢東への個人崇拝は否定すべくもないが、こんなことは長つづきするものではなく、いまにその反対勢力によってとって代わられるにちがいない」なぞとふんぞり返ったものだ。
(略)
 ところが、中国の領土へ一歩ふみこむや否や、私はこの個人崇拝のことなぞ、このあいまいな言葉といっしょにケロリと忘れてしまっていた。(略)
 かりにも百年にもわたる外国支配の鉄鎖から中国民族を解放し、封建制度を徹底的にくつがえして、大衆の生活と明日を保証し、真に自主独立の中華人民共和国をうちたてた中国共産党とその偉大な指導者毛沢東、さらに史上空前のプロレタリア文化大革命をおこし、中国を世界革命の強大無比なトリデとかえつつある毛沢東、その人を心の底から敬愛し、信頼し、そのまえに永久の忠誠を誓ったところでなんのふしぎがあるだろうか。
 (略)
 いまではしかし、個人崇拝という言葉の今日的意義は、われわれにもうはっきりとわかっている。これこそ現代修正主義者の頭領フルシチョフのうみだしたしろものであり、この言葉のまやかし的な、呪縛(まじない)的性質を利用して、当時のスターリンの並ぶもののない偉大な威力を粉砕し、泥まみれにし、打倒しようとはかったものなのだ。 
 フルシチョフはここでは「大悪党」と呼ばれている。豊田と江馬は、スターリニストでもあったのだ。
 本の後ろには「近刊予告」として「豊田正子の〈プロレタリア文化大革命の〉新中国紀行/三部作にご期待下さい」という広告があり、第二部「革命の首都」第三部「上海革命委員会」が、頁数と予価まで記されている。ただ五同産業出版部の経営が思わしくなく、江馬とぬやまらの関係が悪くなったために、第二部以降は出なかったようだ。『不滅の延安』は、古書店でも入手困難、国会図書館のほか、大学図書館では国内に四冊あるだけである。天児は江馬に、これ以上本当に第二部、第三部を書くのか、「先生は中国への義理で書いている」と言い、続編は出さないでくれと懇願したという。
 それから五年、江馬は豊田と天児の間で揺れ動いた。豊田はシナで知り合った人物の経営する赤坂の古美術店で働くようになり、そこで昭和二十三年に知った女優の田村秋子と再会し、一九八三年の田村の死までつきあいが続き、八五年七月に、田村を回想する『花の別れ--田村秋子とわたし』を未來社から刊行して日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した。江馬との別れは一九七二年のことで、七八年に書いた「『綴方教室』その後の変転人生」(『婦人公論』十月号)には江馬のことも出てくるが、シナ旅行については、「中国の革命に関心を持って、勉強しなければならないことを教えてくれたのも江馬さんです」とあるだけだ。
 『花の別れ』には、江馬との別れのことも書いてある。だが、その八五年九月に天児は『炎の燃えつきる時』を出しており、二人が書いていることは食い違っている。豊田は、「Eがずっと以前から私をだましていること、Eの愛読者と称して以前からうちに出入りしていた短大出のはたちの女性とEが恋愛関係をもっていて、ちかぢか私のもとを去ろうと、相談と計画をすすめていること」と書いている。しかし天児は音大卒だし、初めて江馬宅を訪れたのは、豊田の『おゆき』を読んだあとであって、まだ江馬の著書は読んでいなかった。そして豊田は、一九七二年、江馬が娘のところへ行くと言って出ていった時のことを、「隣町の愛人の家に逃れてゆけるかどうかの、お芝居のさいちゅう」だったと書いている。二日たっても連絡がないので、豊田が江馬の娘(恐らく次女の実子)に連絡すると、「父は、衰弱していますので病院に入れました」と言われ、入院先も教えてもらえなかったという。豊田は狼狽して田村に電話し、事件を語り、田村が、
 「それで、Eさんの居所は分りましたか」
 と訊くと、
 「分りました。家出の数日後、整理したわたしの机の引きだしに、見知らぬ電話番号の書いてあるメモが、くしゃくしゃになってつっこんであったのです。ぴんときて、電話をかけてみました。例の短大出の女性が出ました。わたしはでたらめの出版社の名前を言って、E先生はご在宅かときいてみました。彼女は有頂天な声でEを電話口に呼びました。私はていねいな口調でEに住所をききました。作り声をせずにききましたのに、Eは全く気がつかない様子で、やはりひどく有頂天な様子で答えて、行くともなんとも言わないのに、お待ちしています、お待ちしていますと媚びるように言ってました。そのあわれさとうす汚なさにわたしは顔をそむけたくなる思いでした。それに、もう、二二年間一緒に暮らした相手の声が分らなくなっていたのですね。(後略)」
 というのだが、天児が書いていることはだいぶ違う。確かに江馬が豊田のところを出て天児と暮らす相談をしていたのは天児も書いているが、江馬はなかなか決心がつかず、そのうち天児は立川へ引っ越してしまった。すると、七二年六月五日、天児はある出版関係の人から江馬の具合が非常に悪いと聞き、実子に電話して訊くが知らないという。翌日実子に再び電話を架けると、「さっき豊田さんから“危篤だからすぐ来るように”という電話があったので、これから逢いに行くところだ」という話で、それから実子と、その姉のマリ子と相談の上、三鷹の君島医院に十日間入院することになる。「私は豊田さんがよく黙って修を引き渡したと不思議に思ったが、彼女には「千葉の家にしばらく静養に行く」と言ってきたとのことだった」。だとすれば、豊田が電話を架けたというのは十日後に退院してからのことでしかありえないし、入院しているというのは嘘ではなかったことになる。
 それはともかく、『花の別れ』で、田村秋子の夫友田恭助が呉松クリークで戦死し、取材にきた朝日新聞記者が贋の辞世の歌を見せたので田村が怒ったという話になり、田村は軍の宣伝に利用されるのが嫌でシナへ行かなかったと語ったあと、豊田はこう書く。

田村さんは立派だった。当時、娘だった私は軍に招聘されて、日本が満州国とよんでいた東部国境を見てまわっている。恥ずかしさに目を伏せずにいられない。
 
 『さえぎられた光』以来の懺悔だが、豊田は、文革礼讃のとんでもない本を刊行したことについては、恥ずかしくないのだろうか。日本軍の宣伝に十九歳の娘が利用されたのは恥ずかしくて、中共の宣伝に四十五歳の大人が利用されて、原爆実験映画を観て感激し、毛沢東の個人崇拝に自ら巻き込まれたかのように描いたのは恥ずかしくないのだろうか。
 天児直美は、その後の江馬が、文革の成り行きにどう反応したかを書いている。林彪事件のあとでは、
 
 「そういえば、林彪は延安時代にも問題を起こして批判されたことがある」と話した。 私はそれなら尚のこと許せないと反論した。修もそういうことを知っていながら、「延 安賛歌」の中で林彪をほめ、その後発表した「不滅の延安」のあとがき(傍点)でその ことを自慢している。私はこういうやり方は間違っていると思う。この時以来私は中国 への関心を失い、修との意見はくい違ってきたが、修は私を説得することはできなかっ た。しかしさすがの修も、江青を中心とする四人組によって、ベートーヴェンやモーツ ァルトまでがブルジョアの音楽だと批判されだした時は、「これはいくら何でもひどす ぎる」と頭を抱え込んでいた。それでも中国と毛沢東への敬愛の念は変わらなかった。 
 一九九○年代に入って豊田は脳梗塞を患い、そこからの生還を描いた『生かされた命』(岩波書店、一九九六)を上梓したが、これが今のところ、豊田の最新の著作である。豊田は文革礼讃の過去について、いっさい語っていない。巴金は、半ば強要されて自己批判をしたことを告白し、ウソを言わないことを自らに課して、その『随想録』全五巻を書き上げたのだが、豊田が『不滅の延安』のようなものを書いたことを知っていたのだろうか。豊田は、巴金とは対照的に、過去の行為について沈黙を通している。
  *
 現在神戸大学教授の王柯は、東京大学で博士号をとり、その学位論文を一九九五年、『東トルキスタン共和国研究』(東京大学出版会)として刊行し、翌年のサントリー学芸賞を受賞している。主に一九四六年以前のウイグル独立運動を扱い、その背後にソ連があったことを強調しつつ、ソ連の援助なくして東トルキスタン独立は不可能だったとも書いている。そして、

 トルコ系イスラム住民によってイスラム聖戦の名の下に行われた民族独立運動は、その 強大な求心力・生命力と破壊力で近現代の中国の国家権力を今も脅かしていると同時に 、またその異種の性格で中華文明、中華国家の包容力を問い続けている。近現代の中国 政治にとって、東トルキスタン民族独立運動の意義は、まさにここにあったといえよう 。
 
 として、現在の中共政府が、新疆ウイグル自治区共産党書記長に漢民族を当てていることも記している。
 ところが、それから十年たって王が刊行した二冊目の著作『多民族国家 中国』(岩波新書、二○○五)では、中華思想漢民族ではない異民族が受け入れたために生まれたものであると述べられ、目立たない文言を用いつつも、よく読めば中華思想を肯定的にとらえ、中共独立運動弾圧を支持する内容のものである。王は、現在、民族独立運動チベットウイグルの二つしか(傍点)ないと言い、チベットでもウイグルでも独立運動は民衆の間で広く支持されていないと書いているが、これは中共政府の見解を代弁しているだけである。あるいは、ダライ・ラマノーベル平和賞を受賞してから「国際社会に呼びかけて中国に圧力をかけていたが、中国政府は動揺せず、ダライ・ラマの国際戦略はかえって中国と交渉する門を閉ざす結果を招いたことになる」と書いてあたかもダライ・ラマの責任のように書いているが、王にはそもそもチベット独立を支持する気などない。あるいは、今度はソ連ではなく、オサマ・ビンラディンらのイスラムのテロ組織とウイグル独立運動の結びつきを強調して、「テロ・民族分離主義・極端宗教主義」とその独立運動を名付けているが、では中共は「極端社会主義」ではないのかと言いたくなる(むろん社会主義は常に極端なものである)。さらに、ソ連が崩壊したために西欧諸国は、独立運動を「中国に対するカード」にしたと書いているが、そのことで独立運動自体を貶めようとしているのが透けて見える。
 その上、「あとがき」で王はこう書いている。

 中国がチベットや「東トルキスタン」の独立を絶対に認めない理由については、中国国 外の研究者はドミノ理論でそれを解釈する傾向がある。つまりどこかひとつの地域の独 立を認めれば、ほかの地域や民族にもかならず同じような動きが起こる。(略)しかし 中国国民にとって、周辺の民族が中国に見切りをつけるということは、支配者の資質が 問われる問題でもあり、多民族国家体制を維持できるかどうか、つまり「中国」が成り 立つかどうかという根本的な問題にもかかわっている。たとえば、一九四五年の末、外 モンゴルの実質的独立を認めた中華民国政府の指導者蒋介石は、まもなく大陸における 支配力を失った。その教訓で、台湾に逃れた彼は、生涯外モンゴルの独立を承認せず、 台湾で発行していた「中華民国地図」では外モンゴルを中国領のままにしたのである。 
 これは奇妙な、ある意味では恐ろしい文章である。なかんずく、「中国国民にとって」の箇所は、「漢民族にとって」でなければ意味が通らず、著者は無意識のうちに漢民族中心主義という本音を漏らしている。そのあとは、あたかも共産党と国民党といった漢民族間のヘゲモニーを握るために、少数民族を独立させてはならないと言っているとしか取れない。これでは帝国主義者の文章であり、中共支配が崩れることを著者は懸念しているのだとしか思えないのである。私の後輩がこの本を読んで、岩波書店のような弱者の味方がなぜこのような本を出すのか、と言っていたので、私は、岩波はシナに関しては中国共産党の味方なのだよと言ったものだが、王の師に当たる山内昌之・東大教授もこれを書評して、苦言を呈している。                       

しかし、中世から近代まで「中国」「中原」とは異質な歴史を経験してきたラマ教文化世界の中華人民共和国統合はあまりにも性急におこなわれなかっただろうか。著者の観点からすれば、チベットはいにしえから「多元型」帝国の一部を構成してきたようにも理解できるが、それは中心・エリートの視角であり歴史の現実はまた別であろう。次の機会には、清朝から現代にいたるまで、周辺のチベットウイグルに住む人民にとって、そもそも「中国」と何か、「中華」とは何を意味したのかを探る視点も期待しておきたい。(『毎日新聞』二○○五年四月十日朝刊)                 ::
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 これでもかなり抑えた表現だといえるだろう。