国会図書館に始まって、各図書館で、件名「落書」を、みな「らくがき」としているのに気づいた。ラクショとラクガキは、読本の「ヨミホン」と「トクホン」のように違うものだ。
付記:国会図書館の返答は以下の通り。
史学的な観点からいたしますと、落書「ラクガキ」と落書「ラクショ」とは、厳密には区別されるべきものではあると存じます。
しかし、統制語としての件名標目では、専門的観点からは厳密に区別されるべきものでも、一般的観点からひとつ用語や読み方に統一することがございます。
したがいまして、今回のケースにおきましては、標目形:落書「ラクガキ」、参照形:落書「ラクショ」、とすることで統一して検索できるようにしておりますのでご了解いただきたく存じます。
しかしラクショというのは謎だ。二条河原の落書にしても、本当にそんなものが二条河原に掲げてあったのか。むろん当時の日記類にそう書いてあるのだろうが、掲げてあるのを見たのか。
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「山藤章二のブラックアングル」はもう末期症状だなあ…。往年の横山隆一「社会戯評」では、椎名誠が「あれが面白いというやつは一歩前へ出ろ!」とやったが、もはや山藤がそう言われるべき状態だ。とはいえ、騒がれていた初期のものも、いざ一冊にまとまって順に読むと、そんなに面白くはなかったんだよね。
もはや尾辻克彦の名は使わなくなった赤瀬川原平も、つまらない人になったなあ。昔は「路上観察学」だの「トマソン」だの、面白いような気がしたもんだが、「老人力」とくると、もう何か、老人に受けたい一部勢力が騒いでいただけだし…。
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相原和邦先生は、どうやら昨年あたり出獄して帰国されたらしく、ワイド版岩波文庫の漱石『道草』に注解と解説を書いておられる。そこでは、『道草』の記述を事実と照らし合わせて、違っているところがあるから、これは自然主義・私小説とは違う、としている。
相原氏が何をもって「自然主義・私小説」としているのか分からないが、いわゆる「私小説」が、事実そのままを描くものでないことは既に明らかで、花袋は「蒲団」で、日露戦争出征と、美知代からの手紙について省き、正宗白鳥は「泥人形」を描きつつ、妻との関係は実は良かった。従って相原が、『道草』は私小説ではない、と主張したとしても、それは成り立たない。さすがに相原も、それは分かっていて、「自然主義・私小説」という微妙な表現を使ったのだろうが、それですら成り立たない。
(小谷野敦)