山下晴代さんの小説を読む

 山下晴代(1953− )愛知県豊橋市出身。作家。これまで活字になった小説は四編。
「男はそれをがまんできない」『すばる』1990年1月
「パッションのべつの名前」『すばる』同5月
アフロディーテ」『すばる』同11月
「新リボンの騎士」『すばる』1991年7月
 「一消費者」だなんて、早くから執筆者一覧を載せていた『すばる』には、最初から「作家」という肩書です。
 しつこい奴と思われるかもしれないが、議論した相手の書いたものはちゃんと読むのである。
 山下さんはウェブ上にも活字になっていない小説を発表しているが、これは西洋を舞台にしたハードボイルドみたいなもので、『すばる』に載ったのは違うのだろうと思っていたら、何か似たようなものだった。
 最初の作では、いきなり、ジャーナリストのルネと、FBIの捜査官ジムが、マフィアに捕えられている場面から始まる。ジムの恋人のクッキーはCIA勤務で、元CIAで友人の海原コーカイという女に救出を要請して、成功する。これが日本人なのだが、なぜ日本人がCIAに入れたのかは謎。その後、コーカイとルネとジムとクッキーでぐちゃぐちゃ恋愛やセックスをする。
 文体からして、これは何かのパロディなのだろう、と思わされる。そして途中で、なるほどこれは、海原コーカイというのが、こういうハードボイルドなハーレクイン・ロマンスに憧れる日本人女の、妄想の中の自分で、実は東京郊外の安アパートでしこしこそういう小説を描いているという展開になるのかと思いきや、最後まで妄想の中なのである。
 「パッション」では、ヒロインは大木蜜柑という。これも米国だかの自然科学の研究所に勤めていて、男が複数(みな西洋人)出てきて、夢を見たりして、恋愛したりセックスしたりして終り。これまた、その夢から、現実の大木蜜柑が、と思ったら、そうはならない。
 「アフロディーテ」は一番長い。五十ページくらいあるから、150枚はあるだろう。ヒロインは春野曙。やはり米国あたりが舞台で、男が複数出てきて、恋愛したりセックスしたりする。もうここでは、パロディ的な味わいはなく、ただただ下手くそな、ハーレクイン・ロマンスだか森瑤子の出来損ないみたいなものが延々と続く。しかも視点がくるくる変わって、それが意図的なものではなくて、視点という認識がないだけのことで、全知視点ですらないから、途中で誰の心内語だか分からなくなる。よく『すばる』で掲載拒否しなかったものだ。もっとも水原紫苑さんのあれも載せた雑誌だから・・・。
 当時は『文學界』の「新人小説月評」がなかったから、評が見られないのが残念だが、いったいなぜこの人の小説が『すばる』に載ることになったのか、不思議である。
 『万葉集』とか、『古今集』のような勅撰集ばかり読んでいると、それらが優れた和歌であることが分からないことがある。そこへ、『山家集』や『金槐和歌集』のような家集を読むと、凡作も混じっているから、そこで初めて、勅撰集の歌の優れていることが分かる。山下さんの小説は、人さまに見せる以前の小説というものを読むよい機会を与えてくれる。
 既に十九年も前のことだが、もちろんこれらは、単行本にはなっていない。私が編集者でも、しないだろう。さてしかし、山下さんは今も小説を書き続けている。だが、山下さんが面白い小説を書く可能性は残っている。こういう、西洋人との恋愛とセックスに憧れる自分を相対化し、私が想像したようなSF的趣向でも「私小説」でもいいから、自分のありのままの姿を描くことである。西洋に憧れ、作家を目指しつつ、果たせなかった自分を描くことである。それができたら、画期的な作品になるかもしれない。プライドの高い人らしいから、それができるかどうかは分からないが、山下さんの書く小説は、私小説否定論のようなものと、ぴったり一致している。

http://www.mars.dti.ne.jp/~rukibo/yamap.html
私はけっこう、何としても小説を書くという姿勢に好感を抱いているのだが・・・。
http://blogs.yahoo.co.jp/vraifleurbleu39/28614470.html
 山下さんが最初にリンクしたウィキペディアの「私小説」の項目があまりにお粗末なので書き直しておいたから、鈴木登美『語られた自己』とか、私の『リアリズムの擁護』とかを読むとよろしいでしょう。
(付記)枡野さんがコメントしてくれているのだが、私小説観が違うのは当然、というのは違う。佐伯一麦西村賢太がなぜ私小説ではないのか、また上にあげた二著を山下さんが読むには最低一週間はかかるだろうから、待つつもりである。慌てることはないのである。
 しかし上記写真がいくつくらいの時のものかは知らないが、若い頃はさぞかしもてただろうと思われる美形であったろうことを窺わせるに十分であるし、世界観に違いが生じるのもやむをえないような気もする。