共著

 著者名列挙も困るが、論文集に寄稿しただけのものを「共著」と自称他称するのはやめてもらいたいものだ。「共著」というのは、せいぜい三人か四人で書いて、表紙に自分の名前が載っているもの。目次を見ないと名前が出てこないなんてのは、「共著」じゃないです。

                                                                          • -

 『リチャード三世は悪人か』のアマゾン・レビューに対して、具体的にどこがどう間違っているのか教えてくれ、と書いてだいぶたったが、相変わらず分からない上、また無責任なレビューが増えている。これまた、「余談が多すぎる」とだけで、他の本体がどう「雑」なのか、書いていない。こういうのは「書き逃げ」というに等しい。私は他人の本を批判する時は、どこがどうおかしいのか具体的に書いている。何ら具体的な例示もなく、間違いだらけだなどと書くのは卑怯である。
 いや、学者の中にも時おりいるのだよ、こういう、バカにするだけしておいて、どこがいけないのか言わないというやつが。三好行雄谷沢永一の論争の時だって、三好が、名前も論文名もあげずに「文献学の恐さに無智な蛮勇」などと書いたことから起こったのだ。こういう学者的陰湿さはやめてほしいね。

                                                                              • -

http://blog.tatsuru.com/2008/10/14_1056.php
久しぶりに内田ジュの無責任ブログである。村上春樹を評価している評論家がたくさんいることは、私の春樹徹底批判文に書いてある。しかもそれは『村上春樹スタディーズ』にも再録されているのに、読んでいないのかね。しかしO川さんのメールから、重要な「福田和也」の名が抜けて、盗作事件で消えた風丸良彦などが入っているのは奇妙なことだ。
 ここで触れられている二日くらい前の日記では、春樹がノーベル賞をとったら、否定していた連中はちゃんとコメントしろと書いている。もちろん、いくらでもしてやるさ。ただしメディアはそういう取材をしないだろうがね。春樹批判の言説などおおかたはマスコミでは封殺されているのだ。
 というより、ノーベル賞をとると偉いので、春樹否定派が困るとでも思っているのだろうか、ジュは。何という主体性のなさ。グレアム・グリーンやアイリス・マードックに与えず、ゴールディングやレッシングのような三文作家に与えられるノーベル賞、アジアの作家なんか、英訳されなければ貰えないノーベル文学賞に、われわれが水戸黄門を前にした代官のようにひれ伏すとでも思っているのだろうか。

 (小谷野敦