読んだけどつまらなかったよ

 ちょいと前の日経新聞佐々木敦とかいう人が、今の小説はダメだと言う人がいるが、読まずに言うのはおかしい、と言っていたのだが(ただし取材記事)、うーん具体的にどこのどなたさんが、読まずにそういうことを言っているのか、ちと教えて欲しいのであるが、別に私は今の小説がダメだとは言っていないし読んでもいるのだが、これは佐々木なるお方が推奨する古川日出男とかを読まねばならんのだろうと思って読み始めたが、三島賞受賞作は実につまらなかった。この人は通俗作家らしいので、そっちの代表作らしいアラビアなんとかの「大仰文体」に、またかとうんざりさせられた。
 「大仰文体」は擬古典的なところもあるので、起源を探れば、中世の軍記物語や浄瑠璃にまで遡るし、歴史小説大河ドラマ、ファンタジーやSFにも淵源するだろうが、私がはっきり最近の大仰文体の始祖と思えるのは、富野喜幸(由悠季)で、1979年のノベライゼーション機動戦士ガンダム』に始まるだろう。富野の文章が大仰なのはよく知られているが、『イデオン』のノベライゼーションで「癖(へき)なのである」などとあったのが、鮮烈に印象に残っている。
 しかしそれは飽くまでサブカルチャー、アニメのノベライズの世界だからありえたことだったが、平野啓一郎の登場でいきなり純文学の文章として認められてしまった。それからは、黒瀬珂瀾のような歌人が新聞紙上で恥ずかしい文章を書き、小野正嗣が大仰文体で三島賞をとり、森見登美彦が山本賞をとり、といった具合に展開してきた。古川も三島賞受賞作では大仰さを出していないが、これは吉田修一の真似だろう。なんか、学生とかフリーターとかの若者が四、五人いて、ちらほら知り合って何か起こるというのもはやっているようだ。読んだらよけい、私の美意識はこういうのを受け入れないということが分かったぞよ、佐々木敦桐野夏生の『グロテスク』も、とても小説の文章とは思えなかった。むろん、若い人はそれがいいのだ、というのであれば、私は黙って引退するのみである。なんか、既に「押し込め」に遭っているようではあるがね。しかし『アラビアの夜の種族』は大仰文体にしても統一感がない。
 それから三島賞作家などあまり読んでいなかったのでまとめて少し読んだが、まあ実にひどい。鹿島田真希の「ピカルディーの三度」なんて、少年じゃなくて少女だったらただのポルノだし、『6000度の愛』は全然作者にこれを書きたいという意欲が感じられなかった。小野正嗣は最近は大仰文体を抜け出したようだが、つまらん。
 つまらんつまらんでは批評にならんと言うかもしれんが、つまらんものはしょうがない。いちばん面白かったのは『涼宮ハルヒの憂鬱』かな。ただあれは二度は読めないだろう。それと「すべからく」と「命題」を見事に誤用していた。それにしても佐々木って人は、褒めてばかりいるのと、古典的な作品では何が好きなのか、とかいうことが分からないから、基準がまるで分からんのだ。この人、バルザックとかディケンズとか、ユゴーとかロマン・ロランとか、近松秋江とか石坂洋次郎とか読んだことあるのかなあ。

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栗原さんがこういうおかしなものを教えてくれた。
http://sanshoan.blogspot.com/2007/07/blog-post_21.html
 どうやら高齢のお方らしいが、どこにも実名が書いていない。人にいちゃもんをつけるなら実名ですべきものだ。そういう基本的な倫理が、こんな高齢者からも失われているというのが嘆かわしい。図書館の本を30年近く延滞していることを告発してもプライバシーの侵害だなどと言うのも、そういう卑怯者ならではであろう。
 さて中味だが、まるで問題にならん。だいたい反論なら風丸良彦が自分ですべきものである。というか、風丸はその時渡部直己に私信を送り、渡部が、公開してもいいかと言ったらそれは困ると言ったと渡部が書いているのであって、それで十分風丸の不誠実は明らかである。重要なことは正々堂々と議論することであって、この名無しさんのごとく顧みて他を言うことではない。愚か者めが。
 (小谷野敦